気ままな読書ライフ

気ままな読書日記

ド素人のアフィリエイトの本

スピードマスター 1時間でわかる アフィリエイト

スピードマスター 1時間でわかる アフィリエイト

 

 

夏休みのお勉強テーマとして、一つは「アフィリエイト」をちょっと勉強してみようかと思った。自分はこれまで、ブログ=個人日記的な使い方しかしておらず、「アフィリエイト」という言葉は知っていても全く関心がなかった。

 

まぁ、ブログ自体も、読んだ本の備忘録的な位置づけで、気が向いたら書くという極めていい加減なスタンスのものだ。夏休みで少し時間ができて、外の方のブログを拝見していると、たいてい貼り付けてある画像をクリックすると、アマゾンさんのサイトに飛ぶ設定となっている。もはやブロガーの常識なのでしょうね。

 

そう思っているうちに、どうやったらそんな風にできるのか無性に知りたくなってきた。それで、ちょこっと本でも読んでみることにした。

 

この「1時間でわかるアフィリエイト」は、私のようなド素人には、非常にありがたい本だ。もうほとんど、基本的なことしか書かれていないのだと思う。マクドナルドに持っていって、アイスコーヒーとポテトを注文し、つまみながら読み進めていけば、あっという間に読み終えることができる。

 

もちろん、奥の深い「アフィリエイト」の氷山の最先端部分くらいの情報だろうけど、意味は理解できる。どんなものかはわかる。

 

「アマゾンや楽天は、儲けにならないけど(笑)、すぐに始めやすいからともかくやってみろ」的なことが書かれていたので、ともかく事始めでやってみることにした。

それに、「アフィリエイト」ってもう古典的なものだろうと思っていたが、意外と発展し続けているようだ。

 

ともかく、「本の画像をクリックしたら、アマゾンサイトにつながる」というのを実現してみたかった。

 

生きるぼくら

 

生きるぼくら (徳間文庫)

生きるぼくら (徳間文庫)

 

 

この本の読了後の感想を述べよと言われたら、「とても感動した!」という言葉となるが、その中身は一言では語りつくせないものがある。目じりに涙をにじませながら、最後のページを閉じたが、そういう感動も、読む人それぞれの立場で異なる種類の感動があるのではないかと思う。

 

「引きこもり」の青年の話。名前は「麻生人生」。

 

このツカミの部分で、ひょっとして「モサイ小説では?引きこもりの主人公に『人生』なんて名前をつけるような小説、なんか安っぽいんじゃないの?マハさん、たくさん本出されているから、あまりの忙しさに手抜きした小説なんじゃないの?」って最初は疑いの気持ち半分で読み始めた。

 

「中には、引きこもり歴二十五年なんていう筋金入りの引きこもり職人みたいなのもいる」とか、「人生がろう城する四畳半」なんて表現にも正直すこし反発感じた。

好き好んで引きこもっているわけでなく、病気だとか、どうしようもなく25年生きづらさに耐え続けているという人だっているだろうに、「馬鹿にしてない?」と思ったのも事実。

 

しかしそこを越えて、だんだん著者のシチュエーション設定を読み進めていくうちに、話の展開にどんどん飲み込まれていってしまった。引きこもり生活、その原因となったいじめのシーン、母親の突然の失踪をきっかけに部屋を出るシーン、蓼科へ向かう中央線、、、とマハさんの文章は、次々と映像をくっきりと浮かび上がらせていく。

 

この物語には、たくさんのテーマが込められている。
いじめのこと、引きこもりのこと、親の離婚や母子家庭、父子家庭のこと、経済苦のこと、独居高齢者のこと、過疎地の農業事情のこと、老後のこと、介護のこと、認知症のこと、闘病のこと、就活のことなど、著者は昨今の社会問題として扱われるようなテーマをこの物語に盛り込んでいる。

 

誰もが幾つかは身近に感じるようなテーマを取り上げて、一つ間違えば悲惨に陥りがちなこれらのテーマを、なんと心温まる気持ちの良いドラマに仕上げたのだろうと、著者の発想力、創造力にとても感動した。そしてまたそれらの問題を社会問題として客観的な見方で描くのではなく、問題に直面する一人ひとりの視点に立って、それらに立ち向かっていく姿の表現、心理描写の一つ一つに、すごい感性の作家さんだなと感心もした。

 

「自然と、米と、人間とーぼくらは、みんな、一緒に生きているんだ。そんな思いを胸に、人生は、一束一束、心をこめて稲を刈った」

 

人生、つぼみ、マーサばあちゃん、志乃さん、純平、登場するメンバー全員が、自然の中での米作りを通じて、人間性を取り戻し、疲れた心を晴々とした心に蘇生させていく。心が通い合っていく。

 

みんな一緒に生きている、、、「生きるぼくら」。

 

雑草も害虫も全てを生かすマーサばあちゃんの稲作、苦労を乗り越えた末に収穫した暁にのみ得られる、他の方法では決して得られない最高の味。

現代社会の縮図のようにも感じられる。失いかけている何か、忘れかけている何かを思い出させてくれるような。

 

この本を読んだ後、様々な社会問題について、意見交換をしてみるというような、教材としても活用できそうだ。「純平の生き方についてどう思う?」とか、「人生は何に気づいたのだろう?」とか。「介護の在り方はどうあるべきだろう」とか。

 

最後に、人生の母ちゃん、イキイキとした息子・人生の姿を見て、どんなに嬉しかっただろうと、人生の母ちゃんの立場で、また感涙してしまったのである。

夏の図書館ウォーク

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昨年末、この地に引っ越してきて、まず最初に探したのは地元の最も近い図書館。

予約した本を取りに行ったり、返しに行ったりの目的で、週休の土日などに定期的に通っている。

 

小さな丘を越えたところに図書館があり、徒歩で片道20分程度の距離かと思う。体力キープのためのウォーキングにはもってこいの往復の距離である。

 

そして、いま初めての夏を経験しているが、この丘超えがけっこう堪える。途中にあるネギ畑に夏らしさを感じ、思わず写真をとってしまった。

 

今回借りてきたのは、原田マハさんの「生きるぼくら」。ネギ作りならず稲作をストーリに取り込んだ物語だ。まだ、読んでいる途中なので、感想などは読了後に書きたいが、この小説にはたくさんのテーマが盛り込まれているように思った。

 

いじめの問題、登校拒否の問題、引きこもりのこと、農業事情、高齢者の一人暮らし、認知症、介護の問題、社会問題化している多くの事柄を、そのストーリーに盛り込んで、しかもそれを心温まるドラマに展開するマハさんの発想力というか創作能力には感動してしまう。

 

本の表紙には、水田風景と笑顔の若い男女が描かれている。きっとハッピーの詰まった物語なのだろうと期待しつつ、後半を読み進めたい。

「自閉症の僕が飛び跳ねる理由」

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今日は、我が家の自閉症の次女が施設の合宿旅行に出発した。二泊三日の旅だ。

やはりイベントの前、メチャメチャ緊張していたようだ。自分で自分を励まそうと、普段の何倍も言葉数が多い。でもバスに乗り込んだら、楽し気に手を振って出発した。

 

私はサラリーマン、次女は施設通いで、毎日顔を合わすのはたいてい私の帰宅時だが、彼女は決まってPCの前を陣取り、ユーチューブの閲覧を楽しんでいる。毎日、同じ映像を何度見ても全く飽きることはないし、驚くのはユーチューブのスケールで、何分何秒あたりでどの映像を見ることができるのかを覚えているものもある。知的障害で字を書いたり読んだりできないのに、流行りの歌を完ぺきに歌えたりもする。

 

自分の子どもであるのだけれども、健常な自分には本当にわからないことが多い。分かったつもりでいても、全然わかっていない。

 

そういうこともあって、この本を読んでみようと思ったわけだが、読んで驚きがあった。おそらく、自閉症の家族がいる家庭においては有名な本だと思うが、「多様性の時代」というなら、どんな人にもできるだけ多くの人に読んでもらいたい本であると思う。

 

 
先日、帰宅電車の中で、大きな声で独り言を話し続けている青年がいた。恐らく知的に障害があるのだと思う。長く通勤をしていれば、そういう場面に出会うことは何回かあるはずだ。
 
彼の前に一人の男が立った。すると独り言を話す青年の言葉がピタリと止まった。そして立ち上がって、逃げるようにとなりの車両へ移動しようとした。そしたら、その前の男が、独り言の青年をにらみつけて、追い払うような行動をとったのだ。頭にきた私は、その男の目を逆ににらみつけてやったら、そそくさと次の駅で降りた。
 
確かに無知な人からすれば、独り言や突然の叫び声や飛び跳ねる行為は、奇怪に見えるのかもしれない。我々自閉症の子供をもつ親としては、他者への迷惑は気になるし、子どものことを恥ずかしく思い、口を手で押さえたことも何度もある。
 
だが、独り言を何度も繰り返したり、叫び声をあげたり、飛び跳ねることには、理由がある。そのことを知れば、全く許せるようになるだろうし、「どうぞどうぞ」という気持ちになるはずだ。
 
本書の著者、東田君は自閉症だが、トレーニングにより自分の気持ちを表現することができるようになった。ある意味奇跡的な人物である。世のすべての自閉症者の代弁者である。
 
東田君は自分が感じるままに自閉症の生きづらさを語り、自分の行為の理由を語っているのである。その語りの内容を読んで、自分の子どもの行為と照合しても思い当たることが多く、「そうだったのか」と納得するばかりであった。
 
わかればわかるほど彼らの苦労は健常者の何倍も大変なものであり、それと常に戦って生きているのだと思うと尊敬の気持ちさえ湧いてくる。東田くんは、健常者と同じかそれ以上に、様々なことに対しチャレンジしたいという心を持っていた。ただ、そうは心で思っていても、自分の体がいうことをきかないという現実もある。しかし、決してつらい環境に負けることなく、常に人生にチャレンジしていた。
 
 
障害ある人は、健常者に比べてできないことが多くとも、チャレンジと言う点では、はるかに健常者を超えていると実感できた書である。
 

 

自閉症の僕が跳びはねる理由 (角川文庫)

自閉症の僕が跳びはねる理由 (角川文庫)

 

 

 

アンネフランクの記憶

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夏期休暇に入った。というわけで、少し仕事を忘れて、気ままな読書ライフを送ることができそうだ。特にどこかへ行くわけでもなく、起きたい時間に起き、好きな時に冷蔵庫から冷たい飲み物を取り出して、自分のデスクに座って好きな本がいつでも読める、、、これだけで意外と幸福感を感じることができるものだ。「気まま」というのはなんとも素晴らしい(笑)。

 

今日は、先日読み終わった小川洋子さんの「アンネ・フランクの記憶」という本の読書記録を記しておこう。何しろ、数日たつと「どんな内容だったか」がもう思い出せなくなってしまうこの頃である。

 

小川洋子さんの本は、これまでにも数冊読ませていただいたが、精錬された文章を書かれるイメージだ。ファンといえるほど読んでいないけれども、好きな作家さんであることは間違いない。

 

さて、今日は8月4日だが、偶然にもこの日はアンネ・フランクとその家族にとって、重大な事件が起こった日である。1944年8月4日、それまで暮らしていたアムステルダムの隠れ家から、ゲシュタポに連行されアウシュビッツ収容所に送り込まれた日だ。「アンネの日記」は、この3日前の日付で終わっている(そうだ。自分はまだ原書は読んでいない)。

 

小川洋子さんはもちろん「アンネの日記」を読まれている(笑)。

初めて読んだのが中学1年生の時だったそうだ。それからご自身も日記の中で、自己表現することを知り、それが作家業へとつながったそうだ。そして作家となった著者は、自身の心の友であるアンネ・フランクの生涯にふれることができる地を実際に訪れていたいと思い、アムステルダムの隠れ家を訪問し、当時のアンネを知っている人たちに直接話を聞き、そしてアンネの命を奪ったアウシュビッツを訪れるというツアーを計画した。この本は、その紀行文ではあるのだけれども、その中に小川洋子さんの心の友人・アンネに対する思いが込められた書でもあるように感じられた。

 

アンネを知る人との対話の一人めは、「アンネの日記」の中でヨーピーとして登場するアンネのユダヤ人中学時代の友人。もう一人は、「思い出のアンネ・フランク」の著者であり、アンネの父オットーの会社に就業してたというミープ・ヒースさん。

 

アンネを知るお二人との対話をしているときの著者は、ひたすら心の友アンネに対する想いを深めたいという気持ちが表れていた。アンネが生き生きと暮していたころの話を聞き、それを聞く著者も明るく、またその様子を紙面で読む我々も明るい気分で読み進めることができた。

 

しかし、後半アウシュビッツを訪れるところからは、アンネの存在感は消えてしまい、ナチの人種差別による強制収容・大量虐殺の悲惨な光景が、著者の施設訪問とレポートによって再現される。


「ただ単に人を殺すだけでなく、人間の存在を根こそぎ奪い去っていったナチのやり方がこの小さな子供用品を見ていると、わずかでも実感できる気がする。名前、メガネ、髪の毛、ブラシ、尊厳、人形、命、彼らは徹底的に合理的にすべてを強奪した。」

 

強制収容所では、名前を登録され、メガネを外され、髪の毛を削がれ、所有のブラシやバッグやくつなどがすべて捨て去られ、それらが大量に廃棄された想像しがたい山の光景は、いまインターネットの写真でも確認することができる。

 

何の罪もない人々や、アンネの家族のように普通に幸せに暮らしていた家族から、尊厳を奪い、命を奪い去った。無残に、しかも機械的に。

 

こういう事実は、人類の記憶からは絶対に消し去ってはならないものだろう。小川洋子さんのそういう思いは、行動によって本書に結実されたのだと思う。

 

夏休み、「読んでよかったな」と思える本に出会いたいものだ。

 

 

アンネ・フランクの記憶 (角川文庫)

アンネ・フランクの記憶 (角川文庫)

 

 

宮城谷「三国志」第3巻 董卓が中央を強奪 

 

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宮城谷「三国志」の旅はまだ始まったばかり。

やっと第三巻に入って、聞き覚えのある名前が何人か登場してきた。

第三巻の時の皇帝は第12代・霊帝。皇帝が暗愚であると世が乱れる。

皇帝が暗愚であると、その暗愚な皇帝に付け入って、その権力を利用して増長してくるものがいる。そういうシステムが出当たり前になってくると、当然のように中枢部は腐っていき、必然的に乱れた世となるという流れだ。

 

例えば、霊帝は「人は信じられぬが銭は信じられる」という人物だった。そのため要職も銭さえ出せば買えるシステムとなっていた。このシステムを利用し、人臣の最高位まで上り詰めたのが、あの曹操の父、曹嵩だった。

 

そういう時代であったが、そんな父を曹操は批判的な目で見ていたという。そういうことが世の乱れの原因であることを曹操は見抜いていた。目先の欲望よりもすでに天下をにらんでいたと言えるかもしれない。

 

結局、父の道を歩まず、曹操は自分の道を進むが、のちにその父が陶謙に殺害されたときには、鬼神のように陶謙を攻め込む場面がある(第4巻)。違う道を進めど、父子の血のつながりというのは強かったのだと感じた。

 

ところで、この乱れた中枢には、さらにやっかいな存在がいた。宦官である。

皇帝の取り巻きである宦官は、まさに皇帝の権力を利用して、自分たちが権力をほしいままにする体制を確立しつつあった。しかし、その甘汁体制を一掃しようと考える対抗勢力も水面下で力を蓄えつつあった。

 

宦官誅滅を推進したのが袁紹(中軍校尉)と何進(大将軍)で、一掃の大虐殺を行った。一方抵抗も激しく、何進も逆襲の犠牲となってしまった。

この時に、宦官討伐に利用されたのがあの董卓だった。登場のきっかけは、宦官征伐であったものの、彼にはそのタイミングをうまく活用して、自分自身がのし上がるという野心があった。

 

獰猛かつ残忍なあの董卓がのし上がってくる。董卓は、さっそく第13代少帝を毒殺し、自分の名前と同じ「董」を名に含むという単純な理由で、第14代に献帝を擁立し、人質のように献帝を囲い込むことによって王朝を乗っ取ってしまった。

 

名門袁紹袁術の兄弟は、それぞれにひとつの勢力を構成しているものの、お互いが不仲な関係でもあり、董卓の政権強奪に対しては、手が出せないでいる。

また、小さな勢力ながらも力を蓄えつつある曹操は、暴政体制の中から献帝を救い出したいという正義感から、董卓討伐に果敢に挑んでいく。負けてもまた軍を立て直し、董卓に屈することがない。このあたりが、臆病な袁紹などとは異なり大器の片鱗が見える。

 

一方、南方に孫堅あり。彼は戦闘能力も高く、董卓とて恐れるものではない。ついに董卓配下の猛者・呂布をも撃破し、ついにあの董卓を洛陽から長安へ負いんだ。

 

まさに群雄割拠。袁術の勢力は、公孫瓚の勢力と連合し、袁紹劉表連合勢力とにらみ合う構図となった。その公孫瓚の元へ訪れたのが、関羽張飛ともに黄巾平定で戦果を挙げていた劉備玄徳である。

 

中央で暴政をふるう董卓。その暴政を抑え、天下を平定するのは誰なのか?

 

 

三国志 第三巻

三国志 第三巻

 

 本の買い取り☟

「歴史と人生」

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いよいよ本格的な夏の到来だ。

昨年末、比較的自然がまだ楽しめる地を選んで引っ越してきて、初めての夏を迎える。

今日は二階の窓から、真っ青な空の中に、モクモクと盛り上がる真っ白な入道雲が美しい。たくさんの緑の木々から、ニイニイゼミの合唱が聞こえる。

 

来週からの夏季休暇を目前に、2階のデスク周りの整備を始めている。

ふだん、通勤で疲れてなかなか2階まで上がってこないが、夏休み2階のデスク周りで、好きな本を読んだり、音楽を聴いたりとしようという魂胆だ。

ここ数か月の間に新たに買った本を、2階のデスクの書庫に移動して、「これ、面白かったなぁ」とか思い出しながら、椅子に座ってパラパラとやっていたら、久々に放ったらかしのブログでも更新してみようという気になった。「気まま」なので。

 

本は、「気まま」に読むのが好きだ。でも、常に本がなきゃだめだ(笑)。

この「歴史と人生」は、通勤の帰路で読む本がなくなってしまい、途中駅の書店で購入した本だ。新書だし、パラパラと目を通すと、著者・半藤一利氏の著書から気の利いたフレーズを抜粋した本であることがすぐに分かった。

 

「時間つぶしにちょうどいいや」くらいに読みだしたが、読むごとになんだか吸い込まれていくような自分がいた。読んでみてわかったが、ただの寄せ集め、キリバリではなく、なんと80冊もの著書の中から編集者によって厳選された文章が、一定の読み物としてつながりを感じながら読めるように編集されていたのだ。

 

読んでわかったが、半藤氏の文章には奥行きが感じられる。豊かな経験と知識を持つ著者の文章というのは、奥行きが感じられる。「あっそう」で終わらず、その文章の奥にあるものまで確かめに行きたくなる。

 

半藤氏は「歴史は人間学」だと言われている。「そこには人間の英知や愚昧、勇気や卑劣、善意と強欲のすべてが書きつなれられている。」などと言われると、無性に歴史が読みたくなってくる。

 

自ら「歴史探偵」と称されているが、それは尊敬する坂口安吾氏の真似であるという。坂口安吾氏が、元祖「歴史探偵」なのであろう。とするとまた、読書量のまだまだ未熟な自分は、坂口安吾の著書を知りたくなってくる。

 

先日、青空文庫という非常にありがたい無料kindle本で、安吾の「堕落論」を読んでみた。「堕落論」というタイトルからすれば、「どうして人は落ちぶれていくのか」というような内容を想像してしまったが、全くそうではなく、終戦直後の人々へ新鮮な価値観を提供するような内容であった。あの時期にこれを自信をもって述べることできた安吾は、鋭く歴史を洞察していたんだなと思う。

 

また、半藤氏をwikiで調べてみたら、義父が夏目漱石本人であるということがわかった。さすがに夏目文学に造詣深く、漱石と同時代の文人にも詳しい。かと、思えば経歴には、松本清張司馬遼太郎の作品の編集に携わっておられたという記載もあった。

誠に奥深い作家さんだなと思い、この本からの広がりを強烈に感じる。

 

しかし、本は「気まま」にいろんな分野、いろんな作家を読みたいものでもある。

だから、胸の中を「読みたい本」だらけにしておいて、また違う本にも手を出してしまう。

 

 

歴史と人生 (幻冬舎新書)

歴史と人生 (幻冬舎新書)