気ままな読書ライフ

気ままな読書日記

「坂の上の雲(1)」の「日清戦争」の章~「威海衛」の章

この前「軍艦」の章では、清帝国の軍艦と日本の軍艦の規模の差が明確化されていた。世界最強の軍艦をもつ清帝国に対し、老朽艦や鉄骨木皮艦、あるいは鋼鉄艦でも規模の劣る艦隊を率いる日本では、最初から誰もが清帝国の圧倒的優勢を信じ、日本の劣勢は日本国内でも共通の認識だった。

 

日本はまだ近代化をついこの前始めたばかりであり、列強の英米仏独露に比べ、「日本は巨獣の中の虫ケラ」と表現されていた。その西洋との400年の遅れを取り戻すべく、急激なピッチで西洋化を進めていたところである。

 

地理的には、日本の防波堤的な存在が朝鮮であった。朝鮮を他の強国に奪われた場合、日本の存在そのものが危ぶまれることとなるため、李鴻章伊藤博文の間で「天津条約」が取り交わされていた。これは朝鮮半島の独立保持のための条約であった。

 

ところが、朝鮮において、儒教、仏教、道教の各信徒による東学党の乱(内乱)が勃発し、政府軍をも破ってしまうほどの勢力と化したため、政府がその鎮圧を清国(袁世凱)に要請した。この動きにより朝鮮をめぐる、日本と清国の関係が一触即発の関係となった。

 

小日本は、清国に対抗するため、軍のプロシア化を促進したのである。参謀本部方式(プロシア主義)と言われ、いわゆる「勝つためのシステム」と言われた。ドイツに派遣され、1年半ベルリンに滞在し、参謀本部の組織と運営を研究した川上操六参謀次長によるものである。

 

プロシアでは「国家が軍隊を持っているのではなく、軍隊が国家を持っている」と考え、参謀本部の活動は、政治の埒外に出ることもあり得ると考えていたようだ。この発想はどこかで見たものと同じである。

 

すなわち、太平洋戦争下における国家と陸軍参謀本部との関係と同様なのである。つまりこのとき取り入れられたプロシア主義は、そのまま太平洋戦争の終結まで、日本の軍隊の特徴であり続けたということだ。

 

プロシア主義で見られる、「戦いは先制主義」「はじめに敵の不意を衝く」「諜報」というやり方は、この時のプロシア化によって、それが日本の戦争のやり方になってしまったのだということが、本書を読んで初めて理解できた。

 

清国艦隊と日本艦隊の戦い。清国北洋艦隊の司令長官は丁汝昌、日本連合艦隊の司令長官は伊東祐亨。豊島沖、黄海、威海衛の3つの水域で、海戦が行われた。

 

この海戦で、予想を覆し日本が勝利を収めることができたのには、それなりの根拠があった。まず物理的な戦力について、次のように分析されていた。

 

日本連合艦隊は、軍艦28隻、水雷艇24隻、総計59069トン

清国海軍は、4大艦隊で、軍艦64隻、水雷艇28隻、総計84000トン

 

であったが、清国が実際にこの海戦で出動したのは、北洋艦隊の軍艦25隻、水曜艇13隻の総計5万トンであった。すなわち、実質的な軍隊の規模では、互角かむしろ日本海軍のほうが優勢だったということだ。

 

また、日本兵と清国兵の戦いに対する士気の強弱に大いに差があったようだ。清国兵には、国のために命を捨てようと考えるほどの士気はなかったが、日本兵はそうではなかった。

 

また、軍編成について、日本軍は純粋な日本兵であったが、清国軍では雇いの参謀が欧米人であったり、艦隊顧問が英国人大佐であったりで、司令側と兵士との間の言語的コミュニケーションが成立していなかったことが致命的であったようだ。

 

そういう意味で、清国北洋艦隊の司令長官・丁汝昌は戦いの環境に恵まれていなかったと言える。彼は旅順での戦いで清国陸軍が不利に追い込まれた際に、海軍が助ける提案を行ったにもかかわらず、その提案は却下され、のちになって救援しなかったという理由で処罰されたという。実際には、その時の陸軍司令官が無能で救援を断り、自滅したというのが事実であったようだ。

 

最終的には、威海衛の戦いで、伊藤艦隊は魚雷攻撃により丁清軍を攻め込みつつも、丁汝昌の戦いに同情し、降伏をすすめる書状までしたためたようである。

 

学校の歴史の授業では、「日清戦争では日本が勝った」という単純な理解のみであったが、この小説でこの戦いの様子を生々しく知ることができた。

 

 

新装版 坂の上の雲 (1) (文春文庫)

新装版 坂の上の雲 (1) (文春文庫)

 

 

 

「坂の上の雲(1)」の「ほととぎす」の章、「軍艦」の章

 

「ほととぎす」の章。「この年、子規は健康ではない。」という一文から始まる。

ちょうど、先日読んだ夏井いつき先生の「子規365日」(kindle版)に、子規の年表が掲載されていたので、そのスクリーンショットを参考にしてみる。

 

18歳で東京大学予備門に入学しており、俳句を作り始めていた。その大学予備門の寮生活をしていたが、その寮から旧松山藩の書生寮である常磐会の寄宿舎に移った。明治22年(1889年)、子規23歳。

 

前年の夏に、鎌倉で喀血して、医者へいったら肺結核であると告げられた。当時の肺結核は、死病とも呼ばれていたが、子規はどういう神経の持ち主だったのか、それに打ちひしがれる様子もなく、むしろそれを人生を語る題材と扱っているかのようである。

 

ホトトギスが、「血に啼くような声」だというが、そのニュアンスは自分にはよくわからない。「血を吐くまで泣いたから」ホトトギスの口の中が赤いという例えは、わからないでもない。いずれにしても、喀血した子規は、みずからの号を「ほととぎす」とした。

 

肺煩いに苦しみながらも、食は太く、健啖家と言われている。スッポンの生き血を平気ですすり、その肉は好物であったようだ。安静を求められる病にもかかわらず、じっとしていることが嫌いなようで、まったく不治の病である自覚がないかのようである。

子規の野球好きは有名だし、現在使われている「野球(=ベースボール)」という言葉をはじめ「打者(=バッター)」「死球(=デッドボール)」「飛球(=フライ)」などは、子規の翻訳によるものであることも有名な話だが、このころ結核の体で野球も楽しんでいたようだ。

 

子規が松山に帰り、広島の江田島に移転した海軍兵学校に通う幼馴染の真之と再会を果たす。子規と真之は、「昇」「淳」と呼び合う親友である。その淳は、昇のことを、「結核にかかってもたじろぐ気配なし」と語っている。子規は、豪胆なのか、鈍感なのか、楽天家なのか?

 

場面は変わって、「軍艦」の章。

海軍兵学校に通い真之は成績抜群で、後輩の入学の際には、オリジナルの過去問集(つまり真之自らが作った試験問題の「傾向と対策」)を渡している。あまりにも完璧すぎるまとめに驚き、それを利用するのは卑怯ではないかと躊躇する後輩に、「試験は戦いと同様のものであり、戦いには戦術が要る。戦術は道徳から解放されたものであり、卑怯もなにもない」と言ったという。もうこのころから真之は切れ味抜群だったようだ。

 

この章では、タイトルのとおり、軍艦について書かれている。

当時の日本海軍の軍艦は、ちっぽけなものだったという伏線だ。記述によれば、維新成立後20余年、列強の登用艦隊の軍艦からみれば、性能は論外、老朽艦や鉄骨木皮の軍艦で、鉄鋼の軍艦と言えば、高千穂、扶桑、浪速、高雄、筑紫という3000トン~1000トンの小ぶりな軍艦がすべてだった。一言で言うならば「貧弱」であったということだ。

 

それに対して、清帝国の軍艦は、すでに近代化が図られ、北洋、南洋、福建、広東、そして世界最強の軍艦である定遠鎮遠が整備されていた。定遠は、7000超トンである。

 

これはこの時期における日本と清との、圧倒的な軍事力の差をビジュアル的に述べたものである。

 

この次の章タイトルは、「日清戦争」。果たして、どのような戦いが描かれているのか。

 

 

坂の上の雲(一) (文春文庫)

坂の上の雲(一) (文春文庫)

 

 

「坂の上の雲(1)」の「馬」の章

正月休みのようにいくらでも時間があると思うとなかなかできないのが「読書」である。休みに入る前には、「時間があるからたくさん読めるぞ」と思うのであるが、休みにはいってしまうと、飲んで、食って、寝て、とそちらのほうが忙しく読めないのである。なので「一日一章」くらいの目標設定で読んでいこうかと思う。

 

今日は「馬」の章を読み進めた。

「馬」というタイトルだが、これは騎兵隊の馬のことである。従って、兄・好古についての話である。

 

好古は、旧藩主のおつきの関係から、渡仏し、フランスの軍事について学んでいる。

老教官カルバティエの講義で学んでいるわけだが、この教官自身が「騎兵というのは無用の長物だ」と認識していた。一部の天才だけが使える手法であるとの認識だ。

老教官はその天才として4人の名を挙げた。すなわち、、、

・ジンギス汗

フレデリック大王(プロシア

・ナポレオン一世(フランス)

モルトケプロシア参謀総長

この4人の天才だけが、意のままに騎兵を活用できると。

 

それを聞いて好古は、日本人の2名の歴史を語った。

すなわち、鵯越えの源頼朝桶狭間の戦い織田信長も、騎兵隊の使い手であったことを説明し、カルパンティエにもその追加について認められたようだ。

 

そんな天才しか活用できない兵法、天才でないものにとっては「無用の長物」と化してしまうもの、そんなものを好古自身が活用できるのだろうか。学んで活かせるのであろうか。

 

しかし好古は、源義経や信長と同様の騎兵隊を使える天才の一人なのかもしれない。

日本陸軍がフランス式をやめてドイツ式にせよと公示したにもが関わらず、フランスで馬術を研究した好古の結論は、「馬術はフランス式を習得すべき」であった。

フランスの馬術は自然であり柔軟だが、ドイツの馬術は形式的であり規律的であって、実際の戦いに有効なのはフランス式であると判断したのだ。

 

日本の考え方がドイツ化していき、陸軍大臣山県有朋も完全にドイツ好きとなっていたが、その山県がヨーロッパ視察でフランスを訪れた際、対応に出た好古は、「馬術におけるドイツ式の欠陥、フランス式の超越性」を説いたのであった。

 

つづく。

 

 

坂の上の雲(一) (文春文庫)

坂の上の雲(一) (文春文庫)

 

 

新年 初読みは「坂の上の雲(1)」の「海軍兵学校」の章

2020年が明けた。

ブログの習慣化は、昨年から続く今年の目標だが、ともかく「何か書く」というのを目標としたい。気ままな読書ライフの記録なのだから。

 

さて正月、お昼から酒が飲めて、つまみに事欠かないのが嬉しい。

飲んで、いつの間にかぐっすり昼寝をしてしまい、夕方頃目覚めて頭もスッキリ。読みかけの「坂の上の雲」第一巻の「海軍兵学校」の章を読む。

秋山兄弟の兄・好古は陸軍へ、そして弟・真之は海軍兵学校へ入校した。

この兄弟、二人とも非常に優秀だが、弟・真之も入校時こそ15番めの成績で入ったが、その後2年目からはずっと首席だったようだ。彼の特徴は、試験でのヤマカケが得意だったようだ。そのヤマをはるときには、教官側(つまり試験問題を作る側)の立場でヤマをはったと書かれており、しかもその的中率は高く、周囲の同僚からもそういう面でも頼られる存在であったようだ。

 

まだ、日露戦争での彼の活躍模様は未読でわからないが、このようなところでも、すでに才能の片鱗が見えているようにさえ思える。高い角度から物事を観る視点や、直感の鋭さなどは、戦いの場面では必須の才能であると思われる。

 

真之の入校時の挿話として、東郷平八郎のことに触れられていた。当時は、東郷平八郎は、新任の大佐として、軍艦「大和」の艦長であったらしい。

もともと薩摩藩士で、戊辰戦争に出征した際の宮古湾海戦で、あの旧新撰組副長・土方歳三海上突破隊を撃退したというエピソードが記されていた。幕末からの延長線上にある物語なのだなと実感できた。

 

当時は、陸軍も海軍も海外の軍隊の様式を取り入れていたが、陸軍と海軍とで取り入れ先が異なっていたようで、明治3年の政府布告では、海軍は「英式」、陸軍は「仏式」とされていたようだ。

 

ところが、このときフランス軍プロシア(ドイツ)に宣戦して、大負けした。

プロシア軍の勝利はビスマルクによる勝利であり、その時の参謀総長モルトケの戦略戦術の勝利と言われたことから、プロシア軍の戦略戦術が日本軍に取り込まれた。

 

兄・好古が陸軍で師としたのが、そのモルトケの戦略戦術を日本に伝えたメッケルだった。後に「日露戦争の作戦上の勝利はメッケル戦術学の勝利」と言われることになる。

 

真之の海軍兵学校は築地から広島県江田島に移転されることになる。真之にとっては、故郷愛媛の近くとなり、この章では帰郷時の様子が描かれていた。帰郷時の真之は故郷の英雄的青年であり、その姿にあこがれていた少年の中に、将来の俳人高浜虚子河東碧梧桐がいた。

 

この真之帰郷時、兄の好古は日本にいなかった。渡仏していたからである。

旧藩主のフランス留学のおともで、渡仏することになったが、フランス軍に勝るドイツの戦略戦術を学んできた好古にとっては、この渡仏は自身の意思に反するものであり、この時点で彼は陸軍における栄達にあきらめを感じたようである。

 

今日の「読書日記」は、このあたりまで。

 

 

坂の上の雲(一) (文春文庫)

坂の上の雲(一) (文春文庫)

 

 

2019年ラス前の読書                 

麻雀用語で、「オオラス」「ラスマエ」というのがあった。もうする相手がほとんどいなくなったので、少なくとも10年以上はやっていないと思うが、この年の瀬の時期になると、この言葉だけなぜだか思い浮かんでくるのである。今日はラストの前の12月30日なので「ラスマエ」に当たる。

 

個人的に読書のために活用しているツールとして「ブクログ」というサイトがあるが、このサイトでは読書目標の設定ができる機能がある。毎月の目標設定もできるし、年間の目標設定もすることができる。月初めになると「目標を設定しよう」と促してくれ、月の下旬に入ると目標に対する進捗を促してくれる。

 

年頭になんとなく年間100冊見合いの目標を設定してみたが、どうも達成には程遠い。

年間100冊から月目標の設定は8冊としているが、これも年間のうち数か月は達成できたものの、半分以上の月で未達である。それでこの12月の月間目標であるが、現在7冊まで来ている。残りあと2日(正確には1.5日)で達成の有無がかかっている。

 

というわけで、先ほどまで現在進行形の「坂の上の雲」第1巻を少し読んでいたが、やはりどう考えても到達できそうにない。今は「海軍兵学校」の章を読み進めているところで、秋山兄弟の弟・真之が、兄・好古の勧めにより築地の「海軍兵学校」に入ったところの章を読んでいる。

 

 ここまで、兄・好古の人となりや陸軍へ進んだ経緯、次いで弟・真之の幼少期から青年期の来し方。好古がえらんだ「騎兵」の道の背景。真之と子規(正岡子規)の友情の青春時代などが描かれていた。とても読みやすく、情景が目に浮かんでくるようである。

であるので、焦って先を急ぐような読み方はしたくない。じっくり読み進めたい。

 

そういえば、先日読了したがまだブログに書いていない本があった。伊能忠敬のことが書かれた小説「四千万歩の男」(井上ひさし著)について、著者が雑誌や新聞へ寄稿した文、講演した記録、あるいは著者へのインタビュー記事などが編集された本を読んだ。 

四千万歩の男 忠敬の生き方 (講談社文庫)

四千万歩の男 忠敬の生き方 (講談社文庫)

 

 その本の巻末に関連年表が掲載されていたが、1800年のところに「伊能忠敬の御年55歳。蝦夷地を測量して実測地図をつくる(第1回測量)、間宮林蔵と会う。」と記載されていた。

 

つまり、伊能忠敬は55歳から測量を開始し、その出発地が蝦夷地(北海道)であったということだ。間宮海峡という名前を残した、あの間宮林蔵と会ったというか、間宮林蔵伊能忠敬から測量を学んだようである。
 
忠敬は商家の婿養子で、それが第一の人生。そして55歳からが第二の人生のスタートであったということだ。そしてその第二の人生において、日本初の地図を作るという偉業を成し遂げたのである。
 
当時は平均寿命が40歳くらいの時だから、もう皆が隠居しておとなしく余生を過ごそうというようなときに、一念発起してこれをやり遂げたわけだから、これは世の中の壮年世代に勇気と希望を与えてくれる。
 
最近読んだ随筆の中に、バーナードショーの「人生は六十からだ」という言葉を知り、葛飾北斎が自らを「画狂老人」と称し90歳までに3500点もの作品を描き続けたことを知り、プラトンはペンを握りながら死んだというエピソードを知り、目先のことに焦るのではなく、自分なりに地に足をつけて一年一年を刻んでゆきたいと思う。
 
来年も多くの良い本に出会いたいものだ。
 

 

介護のお勉強

今年の10月から介護職の資格取得の学校に通っている。初任者研修というコースで、昔のヘルパー2級資格取得相当の研修だ。土日コースに通っているが、土日ともに授業がある週も何週か続き、しかも10:00~17:00までと終日授業があるため、なかなかのハードロードである。

 

親が介護の年齢となり、介護老人福祉施設(いわゆる特別養護老人ホーム)や、介護老人保健施設(通称「健老」)に入所することとなり、その入所手続きを行ったり、また実際に介護職の方々から様々な介護サービスを受けている。一般のサービス利用者の立場から、介護サービスを見ていたのと、実際に介護職員として業務を行う立場で受ける授業とでは、全く視点が異なる。

 

介護の関係の書籍も3冊ほど読んだ。

 一つは「介護再編」という本。

 本書の副題には、「介護職激減の危機をどう乗り越えるか」とあるが、その背景には要介護人口の激増という問題がある。本書の帯には、「2025年には介護士が38万人不足!」とも書かれている。

 

本書の冒頭に「団塊の世代」(1947年生~1949年生)が75歳の後期高齢者になるのは2024年でその数806万人。つまり、4~5年後に、要介護人口が激増する予測である。
これに対し介護に携わる人の人口は、現状のペースでいけば38万人も不足するという実態予測である。しかも現行の介護現場における質の問題、処遇の問題、制度の問題など山積であり、不安材料を山のように抱えたままそのような現実に直面する可能性を訴えていた。
 
本書の著者の一人は、そいういう事態を一刻も早く改善したいと考える厚労省官僚の竹内和久氏であり、もう一人も同じ考えを持つ介護事業経営者の藤田英明氏である。竹内氏は1971年生まれ、一方の藤田氏も1975年生まれということで、両者はこの介護業界の仕組みについて最も精通しており、しかも若い頭脳で、現状の実態、特に抱えている多くの課題について網羅的に把握されており、その解決に向け現在進行形で精力的に取り組まれている。さらにはこの世界を夢ある世界へと変えていこうとの展望をもって先進的な提言を行っていた。
 
もう一冊は、岩波新書
総介護社会――介護保険から問い直す (岩波新書)

総介護社会――介護保険から問い直す (岩波新書)

 

 著者は、制度にも詳しく、最新の介護保険制度の解説を踏まえながら、現在の実態や、課題点などを浮き彫りにしてくれていた。介護職員の処遇の問題と利用者のコストの問題は、非常に大きな問題だと感じる。

 

利用者側からすればなるべく低コストで介護サービスを利用したい。介護の問題は「年金」の問題と類似したところがある。親の年金制度を子の世代が支えているように、親の介護を子の世代が行う。年金の支え手がどんどん減少し、支えての負担が増加傾向にある。同様に、介護にもコストがかかる以上、支えての負担は増加傾向にある。しかも負担が大きいからと言って「や~めた」とは言えないところが過酷である。

 

一方、介護職員の人数が少ないことから、介護職員の業務的な負担は大きい。人手が足りない=職員一人当たりの労働負担が大きいという構造だ。業務をマルチでこなさねばならない。しかしながら、介護保険制度の財源は乏しく、職員に分配される報酬は少ない。現状の介護職員の報酬は、膨大な業務量をこなしながら全く報いられていないのが現状である。

 

昨今、介護保険料の増額が予定されているが、そうすると利用者としての負担が急激に大きくなり、これまた負担増の恐怖をもたらすのである。

 

もう一冊読んだのは、ベテラン介護職員が執筆されたこの本。

介護ヘルパーは見た (幻冬舎新書)

介護ヘルパーは見た (幻冬舎新書)

 
本書の特徴は、著者の介護職員としての実経験に基づく100ケース以上の事例を題材として、介護現場の実態を生々しく浮かび上がらせている。もちろんプライバシー等には十分に配慮されて書かれている。
 
本書の題材となっているケースは、いずれも一般的な常識を超えたケースばかりだ。しかしながら、これは介護の世界の常識のようでもある。従って、介護の現場に無知な人からすれば、介護の現場の苦労は想像もつかないだろう。逆に、介護の現場の実態を知った者、あるいは正しく理解しようと思う者にとっては、この著者がいかにこの分野のスーパーウーマン的存在であるのかもわかるはずだ。
 
ケースのほとんどが「認知症」と関係している。劣悪な環境と言われてきた介護の現場にあって、制度の整備、環境の整備、施設やツールの整備などでも改善は進められているのであろうが、本書を読んで、それらの改善と並行で、やはり介護職員の技量の向上が重要であると感じた。その技量の主軸となるのは人間的なキャパ、すなわち包容力、忍耐力、利他的な心等であるのだと、著者の振舞から感じられた。
 
当然、制度改善が求められるけれども、本書の著者の言い分は、現場に無知なものが制度だけをいじくるのは、介護職員にとっても利用者にとっても好ましくないということだ。制度改革のこの問題は、どの分野でもいえることだが、得てして望むとおりにいかないというジレンマが付きまとう。

 

利用者の立場から、お世話になっている介護職員の働きぶりに心から感謝の気持ちがわいてくると同時に、これからくる要介護人口がピークを迎える時代に、何か貢献できないものかと考えたりもする。

 

昨日、ベテランの介護職の方にこのような状況について話をお聞きする機会があったが、さすがに先を見ておられた。団塊の世代後期高齢者となるに備え、介護人口を増やし、施設を整備するとしても、その先また高齢者人口の減少時代が来ると、今度は準備した人材や設備が余剰となってくることになるとも言われていた。

 

なるほど、現在の空き家問題と同様のことが起こりうるとも思われる。

難しい問題だけれども、大事な問題であると実感している。

 

 

 

青春キップ読書の旅

 

またまた久々のブログ更新。更新ネタは幾つもあるのになかなか更新できないなぁ・・・と思っている間にもう年の瀬。世の中で多忙に活動しつつ、日々更新される方々に敬礼したい気持ちである。「習慣化」は2020年への持越し課題だ。

 

今回は「青春キップ読書の旅」なんていう楽しそうなタイトルになったが、実は「遠距離介護のための低コストの旅」という裏本題がある。介護施設に入る母親への年末の挨拶(顔見せ)の旅なのである。

 

現在よく言われる介護の社会的な課題については、自分自身もほぼ該当しており、自分の場合は直接介護することの困難を選択せず、介護保険制度を活用して外部のプロの支援を活用する選択をしているが、東京(自分)と大阪(親)という遠隔介護であるため、一般庶民としてはコストの削減が一つの大きな課題である。

 

なんと、今回10月から12月の間に、すでに新幹線移動を2回も行っており、このコストは半端ではない。ということで、今回は人生初の「青春キップ」を活用した移動にトライしてみた。しかし、どうせ時間をかけて移動するのであれば、少しでも楽しみながらトライしてみようということで読書の旅に位置付けることにしたのだ。

 

所持品は軽くするため小さなリュックに収まるだけとし、男一人なので低コストに執着した。もちろんベテランからすればもっとコスト削減する方法があると思われる。

・キップ、札入、ガマグチ

・本(「大世界史」(文藝新書)、「坂の上の雲(1)」(文春文庫)、「82年生まれ、キム・ジョン」(筑摩書房)」他、スマホ内にkindle本数冊。

・ノート、ポストイット、ペンケース、日記帳

スマホ、充電器、充電コード、コンセント、イヤフォン

・歯ブラシ、シェーバー、タオル、ハンカチ、着替え最低限、傘

・ゆで卵、おむすび、ペットボトル飲料

こんなものかな。

大世界史 現代を生きぬく最強の教科書 (文春新書)

大世界史 現代を生きぬく最強の教科書 (文春新書)

 

 

新装版 坂の上の雲 (1) (文春文庫)

新装版 坂の上の雲 (1) (文春文庫)

 

 

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

 

 

朝、最寄り駅の始発5:35に乗って出発。意外と乗車客が多いのにびっくり。

私鉄からJRへの載り入れ駅で改札をくぐらねばならないところ、いつもの調子で乗り換えてしまい途中で下車。初っ端からリスケジュール。しかし、現代はネットの乗り換え案内が充実していて、リスケが簡単にできるのはありがたい。

 

東京駅のホームの座席で、ゆで卵を2個食す。まだ仕事納め前のサラリーマンが乗車待ちしているのに、自分は別世界の人間となっているため、平気でこんなところでゆで卵が食えるようになっているのが可笑しい(笑)。

 

しかし、早朝といえども通勤客は多く、座席シートなど確保できるはずもない。本も読めるはずもない。と思いきや次の新橋で早くもシートを確保。結局この後、すべての乗り換えでシートが確保でき、立ったのは東京までと東京ー新橋間だけだった。

 

東海道本線米原まで、米原から琵琶湖線を乗り継いで約12時間は、まったく苦にならず腰痛の悪化もなかった。感覚として、会社でデスクに座り、時々立ってトイレタイムやコーヒータイム、昼食などを挟みながら終日イスに座ってデスクワークしているのと大差ないのだ。しかも、仕事でなく、ホケ~っと窓の外を見たり、好きなときに本を読んだり、音楽聞いたり、居眠りしたりと好きなように過ごせるわけだから気楽なもんだ。

 

早くも浜松の前で、すでに読みかけていた「大世界史」を読了。これは、2015年ころの情勢が書かれた本なので少々古い。世界史のうちの4年分くらいの誤差は苦にならないかと思い読んでいたが、朴槿恵大統領の名前が出てきたり、トランプの当選予測の話題などが出てくると少々興ざめした。ちなみに、著者の池上彰氏も、佐藤優氏も、本書の中ではトランプ氏は負けるほうに予想していた(笑)。

 

しかしまぁ、そういうところも我慢して読んでみると、あまり世界通でない自分にとっては、いろいろと勉強になったところもある。いきなり中東のシーア派とかスンニ派とかから始まるので、「苦手だな~」と思いつつ読んでいたが、この辺りは国会議員でも知ったぶりしながら間違って認識している人がたくさんいるようで、中学の基礎知識を勉強し直すつもりで読んでみた。

 

それにしても、佐藤優氏の読書量はすごい。以前、立花隆氏と佐藤優氏の対談「僕らの頭脳の鍛え方」を読んだとき、立花氏は「知の巨人」と呼ばれ、佐藤氏は「知の怪物」と呼ばれていたが、まさにその称号は間違いないと思う。イチイチ語る意見の中に、著書かふんだんに引用されているので、よくいちいち覚えてるなと感心してしまう。

ちなみに、この「僕らの頭脳の鍛え方」には二人の著者のオススメ本400冊が紹介されていたが、凄すぎる本ばかりで、自分のこれからの人生に直接役立てられそうな本は10冊くらいしか見つからなかったのを覚えている(笑)。

 

ぼくらの頭脳の鍛え方 (文春新書)

ぼくらの頭脳の鍛え方 (文春新書)

 

 

浜松から豊橋行き乗り換えるとボックス席タイプの車両だったので、窓際を確保し、持参のおむすびをほおばる。ここまでキップ以外のコストゼロ。

 

豊橋で大垣行に乗り換えて、これまた持参のカップケーキとボトルコーヒーでオヤツタイム。久々に、80年代ハードロックバンドQUIET RIOTのLIVEを聴きながら、糖分を摂取しながら、車窓の走り去る田舎風景を眺めていると、脳細胞が息を吹き返してくるようである。

 

安城関ヶ原彦根、石山、と歴史を感じる駅名に遭遇するのもこの鈍行の旅の楽しさの一つかもしれない。好きな人は、歴史小説を片手に、史跡めぐりをするんだろうなぁ。城めぐりもよいかもしれない。

 

 途中気づいたことだが、このシーズはこの「青春キップ」で帰省する人たちのラッシュのようだ。いつも乗り換えの時に、大きなスーツケースを抱えた人たちが一斉に乗り換えるが、常に同じ人たちであることが分かった。これから年末年始を過ごすためのグッズが詰め込まれているのだろう。

 

米原を過ぎると、もう射程圏内に入った感覚だ。

京都、高槻、そして大阪に到着。学生時代、新入社員の時代に関わりのある駅では懐かしい時代を思い出すことができた。こういう旅もなかなか良いものである。

 

大阪に到着し、母親の施設へ直行し、しばらく対話のひと時を過ごす。

夜は、難波にある安い素泊まりのホテルへ。2200円也。

金龍ラーメンもゆかりのお好み焼きも近距離。意外と寝るだけならこれで十分。

共用スペースにはなんとブラリーがあるではないか。

フリーのドリンクを飲みながら、読書を楽しめるスペースがある。

 

 

少し時間的なゆとりをもって旅すれば、もっとグルメや観光も楽しめてよかったかもしれない。