気ままな読書ライフ

気ままな読書日記

雑談:介護日記3 昨夜は敗戦

試用期間(3か月)が終了すると、いきなりシフト表に夜勤の回数が急増した。月に8回の夜勤。これまで日勤しか経験のない自分としては、生活スタイルが一転することになる。介護職は、体力勝負とは聞いていたが、本当に心して健康管理に努めていかなければ、体調を崩してしまえば、すぐに「使い捨て」の対象とされてしまいそうだ。なかなか鍛えられる職場ではある。

 

さて、「有料老人ホーム」での夜勤について、他の職場を知らないだけに、何とも言えないが、なかなかのハードワークだと現在は実感している。

 

もちろん経験をつみ、技術が向上してくれば、ハードだと思えていたこともそうでないように感じられてくるものなのだろうが、正直のところ現在はギリギリの線で持ちこたえている感覚だ。試合に例えれば、昨日は確実な「敗戦」、辛うじて試合はギリギリ成立しているという感覚だろうか。

 

利用者様の要介護度はかなり高いと思う。認知症のため排泄介助を要する利用者様がかなり多いが、通常の定時排泄でルーチン的にオムツを交換するだけなら問題ない。問題は、予想外の事態が発生したときだ。

 

ここ数か月前までは、そのルーチン業務である定時排泄でのオムツ交換さえ、机上の研修しか経験がなかったため非常な不安を伴っていたのだから、少しは成長している。しかし、想定外の事態への対応は、経験を積み技術が必要と感じている。

 

今回は、朝食対応で準備の忙しい朝の時間帯に、ベッド上での便失禁2件、ベッド上での尿失禁2件が勃発し、最終回に長打を連発されてノックアウトされたような感じだった。ベッドのシーツ取り換えに影響したり、着衣の着替えに影響する失禁のダメージは大きい。結局、想定外の時間と労力を要することになるからである。

 

そうならないような定時観察とか、先手をうった対応をきちんとできることが、経験からくる技なのであろうが、全く未熟を感じる。現状、甘めのコースを滅多打ちされている感覚だ。

 

認知症とは恐ろしい。失禁でベッドが汚れても不快を感じないのであり、感じてもどうしてよいのか自分ではわからないのであり、あるいは「こんなことは今までなかった」と過去のことは全く覚えていないのである。

 

ともかく先手は、トイレで事前に排泄を終わらせておき、ベッドや着衣への影響を及ぼさないようにすることだ。勃発したときにも被害を最小限に食い止められる工夫をしておくことが大切だ。

 

次の試合までに、作戦を立てねば。

 

 

雑談:介護日記2 職場の雰囲気

第二の人生として、自ら選択した新たな職場「有料老人ホーム」。様々な思いや考えのもとに、全く未経験のこの世界で挑戦してみようと決意し、定年退職日の翌日からスタートした。ここではまだあまりこの世界に染まっていないうちに、率直な感想を記し、自身の検討の場にするともに、できれば他者のご意見も伺いたいというスタンスで書いてみたい。

 

第二の人生のスタートといっても、全く未経験のずぶの素人では、自分自身の不安も大きいだろうし、色々な面で迷惑も掛かるだろうと思い、もっとも基礎となる「介護職員 初任者研修」というのを某事業者の研修カリキュラムで事前に受講した。介護の基礎知識を学べるもので、この研修自体は受講者も和気あいあいと楽しい授業であった。

 

机上の知識と実習経験で、実際の職場へ入ったが、色々な面でカルチャーショックをうけた、いや受けているというのが正解だろう。カルチャーがこれまで従事していた企業の事務職とは全く異なり、カルチャーが異なる分目新しく新鮮に感じられるよい面と、カルチャーショックと感じられる面の両面がある。

 

さて、この業界のうわさ通り、離職率が高いということは、入社の時から肌で感じられた。そもそも自分自身は、その離職の穴を補強するための要員として採用されている意味合いが強い。自分自身の4月の採用日以降、毎月のように新たな採用があり、そして離職者(というより契約終了者)もある。

 

しばらく業務に馴染んだスタッフの契約を終了し、新たなスタッフを採用するというのは非効率ではないかと最初は感じた。しかしこの採用傾向を見ていると、経験者で有資格者をどんどん採用して、仕事の即戦力とならないと判断されたスタッフは、容赦なく契約終了されていくという様子がうかがえる。

 

傾向でいうと採用者の年齢も比較的若く、けっこうな経験を積んでいる方ばかり。そして女性率は非常に高い。逆に無資格で採用となった男性スタッフは、早々と契約終了となってしまった。つまり、基本女性の職場である。そして会社はスタッフの採用・契約終了を繰り返して、体制を維持していくスタンスのように思える。

 

この業界の特徴として、「離職して他の職場に流れていく」人が多く、逆に会社側はそういう流れてくる経験者・有資格者を募りやすいため、言い方は悪いが「使い捨て」の文化があるように感じられる。

 

スタッフとしては、オチオチしていられない、雇用面では非常にリスキーな職場と言える。そしてまた、ある程度の経験者・有スキル者であれば、今は要員不足であるため、どこでも面接してもらえるという手軽さがあり、「気に要らない職場ならさっさと辞めて、次の職場を探せばいい」という風潮があると感じる。これが離職率が高い理由でもあるのだろう。

 

雇用形態としては、正社員の他、パート社員、派遣契約社員がいる。また就業パターンはシフト制で、早番、遅番、常勤(日勤)、夜勤があるが、夜勤は負荷が多いし、生活スタイルの適用も難しいため、敬遠される傾向が強く、従って「夜勤をしたくない」という理由で、パートや派遣契約の雇用形態を選択する方が多いようだ。

 

こうなると本来は、最も経験豊かでスキルも高い正社員がおり、その正社員の指揮命令のもとに派遣スタッフが連携をとりあって業務を回していき、手薄となる部分についてパート社員等で補強されているという流れが理想的なように思えるが、実際のところ現職場では、正社員が少なく、しかも経験者・有スキル者がおらず、派遣スタッフのほうが経験が豊かで有資格者であるというのが実情であるため、正社員と契約社員の間の潜在的な確執がある。これは組織活動としても、最もよくない風潮だと感じる。

 

端的に言えば、派遣スタッフ側からすれば、「仕事もできないのに正社員で高い給料をとっている」という不満があり、正社員側からすれば「言いたいことだけ言って、責任から逃げる」という不満があるように思う。そして、その不満を直接ぶつける悪口がさらに職場の雰囲気を悪くしているように感じる。負のスパイラルである。

 

こういうどちらかと言えば、社会的弱者のサポートを買って出る人たちが集まった職場であれば人格的に素晴らしい人達の集団だろうと想像していたが、そうでないのは、この業界の特徴なのだろうか、それともこの自分の職場だけの特徴なのであろうか?お互いの協調性が発揮できて、連携が取れればよいと誰しも思うところだと思うが、どうしてそうならないのか。

 

ともかく、この悪循環からの脱出のためには、自分からはいかなる状況でも悪口は発信しないことだと感じる。また、社員の雇用区分で就職した自分としては、やはりなんといってもスキルを磨き、経験を積まねば話にならないとも感じる昨今である。

 

しばらくは、忍耐力と努力をもってトライアル&エラーで経験を重ねていくしかないのだろう。

 

雑談:デジタルな息子とアナログな親父

社会人となりIT関連企業に勤めることとなった息子の部屋には、入ることはないが、時々ドアの隙間から見える様子では、自宅にも立派なIT環境があるようだ。PCが数台、タブレット端末、スマートフォン、その他おそらく快適な環境が整っているはずだ。なるべく身体を移動しないで済むことは、極力端末操作で済ませる主義らしい。

 

一方、これまで採用から定年退職まで一本で勤めてきた会社をこの3月末に卒業し、「介護職」という新たな人生経験にトライしてみた自分は、ここ2か月ほどPCなしの生活を送ってきた。これまで勤めてきた会社では、デスクワークであったためすべての業務にPC処理が関わっており、一日の生活時間の何割もPCの前で過ごしてきた。

 

それが、この新型コロナの影響で、一日にまったくキーボードを叩かない日々をここ2か月ほど過ごしてきたのだ。実は自分の部屋にも、息子が使わなくなったノートPCがあったのだが、世間がテレワークとなり、息子の会社も当然のごとくテレワークとなり、これまで借りていたノートPCを息子がテレワーク用に使うこととなったからだ。

 

特に介護職にPCは必須ではなく、これを機に完全アナログな生活が始まった。それと同時に、アナログな「読書ノート」をつけ始めた。近くの100円ショップで、ページごとに「日付」を書き込める日記にふさわしいノートを数冊仕入れてきた。ともかく読書のかたわらに「読書ノート」を置いて、メモを取ったり、気に入った言葉を抜き書きしたりしている。

 

黒のボールペン、赤のボールペン、修正テープ、ラインマーカ、これだけで楽しいアナログ読書日記が綴られていく。下手でも自筆の文字になぜか愛着を感じる(笑)。キーボードで叩けば直ちに漢字変換してくれるが、アナログ日記となると自分の頭で漢字変換せねばならない。ボケ防止になるべく漢字で書く努力をする。出てこないときは、スマホで変換してみて、それを手書きで書く。意味のわからない単語が出てきたら、これまた調べてみる。

 

最近やっと図書館が貸し出しを開始し、新型コロナ対策による閉鎖前に予約していたカミュの「ペスト」の貸し出しの順番がやっと回ってきた。少々出遅れ感もあるが、夜勤明けの昨日から読みだした。 アルジェリアのオランという町で発生したペストの物語だが、その発症のきっかげが「鼠」である。そしてペストの症状として「鼠頸部(そけいぶ)」に痛みが出てくる。

ペスト(新潮文庫)

ペスト(新潮文庫)

 

「鼠」という文字がさっそく書けない(TT)。これまでなら「ネズミ」と書いて済ませていたところだ。はたまた「鼠頸部(そけいぶ)」って体のどの部分を指すのだ?・・・無知による疑問がわいてきて意味を調べてみる。股関節あたりなのか・・・。

 

完全アナログ生活になってから(息子にノート端末を返してから)、ずいぶんアナログ日記のページが増えている。これをパラパラと見返すのがなんとなくまた楽しい。気の利いた言葉にラインマーカを引いたりしてみると、アナログページが彩られる。最近では、メモの頭に赤のボールペンで自分なりに「見出し」をつけてみたりしている。学生の頃の講義ノートの記憶が懐かしくよみがえってきた。

 

ボールペンにかけられる筆圧にも自分なりの納得感が必要なようだ。自分は細いペン先駄目のようである。筆圧をかけられないとなぜかストレスを感じてしまう。

 

「ペスト」の順番が回ってくるまでは、吉川英治の「宮本武蔵」を再読していた。これも青春小説で、若いころに何度も読んだ小説だが、定年の年になって再び読んで見たい衝動にかられたからだ。Kindleに全8巻合本完全版というのがあり安く入手できるが、読み進める達成感を味わうため実際には「青空文庫」で読み進めている。 

宮本武蔵 全8巻合本完全版

宮本武蔵 全8巻合本完全版

 

 青空文庫では、「序」の巻から始まり、「地の巻」「水の巻」「火の巻」・・・と分冊されているの「分冊」を読み終えるごとに達成感が感じられるし、「読書日記」でも書き分けができてよい。「風の巻」では、あの京の名門、吉岡道場との対決シーンが満載だった。

 

兄清十郎との蓮台野の戦い。弟伝七郎との蓮華王院での戦い。そして、門下全員vs.武蔵の一乗寺・下り松の壮絶な決闘シーン。戦いの第一のクライマックスが描かれると同時に、いつもすれ違いだった武蔵とお通のプラトニックな恋が気持ちの上で成就する、そういうもう一つのクライマックスシーンもこの「風の巻」には描かれていた。吉川英治は、日本を代表する文豪であるなと改めて実感。

 

そうこうしているうちに、東京アラートが解除され、息子の会社のテレワークも終了となったようだ。またノートPCを戻してくれた。今日は、久々にマイルームにPC環境を再びセットし、こうしてブログを更新している。

 

息子は「極力移動しない」生活から、通勤というアナログな勤務形態に戻らねばならないようだ。一方、介護職というテレワークとは一切無関係な仕事の自分は、趣味の読書生活に若干デジタルが戻ってきそうである。

 

 

オッサンになっても読めるコミック 今回も「ヨシ!」

 

 今回も面白かった!!

まずこのシチュエーションの設定のワクワク感が半端ない。

 

大たちのバンド、名前改め「Dai Miyamoto NUMBER FIVE」と、大のライバルであるアニー(アーネスト)のバンドが、ジャズを率いて、イギリス最大級のロックフェスのステージに立つのである。

 

「ブリティッシュ ロック」と言われるように、イギリスはロックの聖地だ。ビートルズストーンズも、かつての三大ギタリストを生んだヤードバーズもみんなブリティッシュなのである。

 

今回のロックフェスの原点を彷彿させる、あのモンスターズ・オブ・ロック発祥の地もイギリスである。

 

ロックフェスは、ロッカーにとってはフェス(=祭り)である。全身でパワーを感じ、自らを全体に一体化させる祭りである。

 

ロッカーには、いくら技術があっても、パワーがなければ音楽じゃないといった、独特のポリシーがある。ちょっと聴いてみて、そのポリシーに合致しなければ、もうあとは見向きもしないという偏見にも近い残酷性も持ち合わせている。

 

従って、最初から完全にアウェイなのである。
たった2つのバンドじゃ、埋もれてしまう。殴り込みと意気込んでも黙殺されるのがヤマである。

 

そんなシチュエーションだからワクワク感が半端でないのだ。プレイ前に大の手が震えるように、こちらのワクワク感も高まっていくのである。

 

大には、とてつもないパワーがあってよかった。大の魂をゆさぶるようなパワーは、ロッカーたちの心に響く。最初にアニーじゃこうはいかなかっただろう。

 

大とアニーのライバル対決という設定もあっただろうが、このシチュエーションじゃ、技よりパワーのアドバンテージが断然大きい。

 

だけどもロッカーは細部への拘りが強いというのもある。逆に、いくらパワーがあってもヘタだと許せないものがある。

 

大にビッグなオファーが来たのは、ただのパワープレイだけによるものではない。テクの上でも認められた結果だろう。

子育てするなら読むべき本 「毒になる親」

 

毒になる親

毒になる親

 

 

毒親」とは、1989年に本書の著者が「子どもの人生を支配し、子どもに悪害を及ぼす親」を指す言葉として作った造語である。昨今この言葉を使った本も多く出ている。

 

「自分の親はそういう親ではないか」という不安や恐怖とともに本書を手にした方もいるだろうが、私は逆の立場で手にした。すなわち自分はその「毒親」に違いないと思い、その自覚と改善で、療養が長引く娘を少しでも早く救うことができないだろうかという思いで読んだ。同種の本も多数読んでいる。

 

これは恥をさらすようではあるが、これから子育てをされる方々が同様の辛い思いをされないように、情報共有させて頂きたい。

 

本書はすでに「毒親」と言う言葉に何かを感じる方が手に取るにはやや遅すぎる本であり、むしろ何も悩みがなくても、子育てをスタートする全ての両親が知っておいて有効な情報であると思う。

 

そもそも、「毒親」というのは、自分が「毒親」であるということが全く分からず自覚がない。むしろ子どものことを第一に考えたり、大事にしたいという気持ちが強く、そういう意識で子育てをしている方が多いかもしれない。

 

あるいは「自分は子どものころ、あまりよい子ども時代を送れなかったから、せめて自分の子どもには、存分に幸せにしてやりたい」と考えたり、「自分ができなかった分、子どもには、そういう理想的な生き方をさせてあげたい」とか、「自分は子ども時代に好きなことができなかったのだから、これから子どもと一緒に、色々なことを楽しんで、自分も生きなおそう」とか、そういう風に考えている善意の親が、「毒親」となってしまう場合も多いと思う。

 

さらには、「子育て、よくわからない」「どう育てていいのかわからない」「子どもを愛するってどういうことだろう」って感じるような人も、「毒親」となってしまう可能性が十分にあると思う。

 

本書の中に、”「毒になる家系」においては、毒素は世代から世代へと伝わっていく性質を持つ。誰かがどこかで意識的に止めない限り途切れることがない。”という表現や、”輪廻をどこかで断ち切らねばならない”という言葉が出てくる。

 

本人に自覚がなくとも、すでに自分の子ども時代に、良くも悪くも親の影響を完全に受けきってしまっており、それは遺伝子のように知らず知らずのうちに受け継がれてしまっているようである。もし自分の親が「毒親」であった場合には、自分がいかにそれを反面教師として、違った人生を進んで行こうと心の中で誓ったとしても、自覚しないうちに同様の道を歩んでしまっているのが現実のようである。

 

その改善には、自らの気付きによる自覚が必要である。
そういう気付きを得るには、本書のように、専門的に研究された人の本を読んだり、専門家のカウンセリングやセラピーを受けるなど、自分の外側からの刺激が必須である。なぜなら、「毒になる家系」とあるように夫婦もその両親も似た者同士である場合が多いから、その間では気付かないのである。

 

以下、本書の中から得られた有効と思える情報を共有したい。

 

・多くの「毒になる親」に共通していること=自分の不幸や不快な思いを他人のせいにする。そしてその対象にはたいてい子どもが使われる。
※人間の感情が他人の言動から影響を受けるのは事実だが、大人であるなら、誰かに傷つけられた時にも、自分を癒すのは自分の責任である(=子どもに当たるな!自分の不快は自分で解決)

 

・「親は絶対である」「いつも自分は正しい」というタイプの親は、好んで勝手なルールを作り、勝手な決めつけを行い、子どもに苦痛をもたらす。

 

・親子が逆転(=親が自分の責任を子どもに押し付け)
夫婦喧嘩の仲裁をさせているとか、親の不安を子どもに聞かせているなどはコレに該当するだろう。
→子どもは自分で自分の親を演じなければならず、時には親の親にまでならざるを得ないことがある。そして、子どもには、本来見習うべき人、教えてくれる人がおらず、頼るべき人もいない。大人になっても、物事をやり遂げる力が育っていない。

 

・子どもをコントロールしようとする親は、自分自身に強い不安や恐怖心があるため、子どもに干渉ばかりしている自分をとめることができない(←麻薬的だ)。
※子どもの独立を恐れる。子どもに非力感を植え付ける。(自分の支配できる存在を失うのが不安=つまり完全なる親の子への依存)

 

・暴力や言葉の暴力のような目に見えるものだけが支配ではなく、親が心の中にもっている考えが、子どもに影響を与える(本書の中では「操り人形」と表現していた)。
例えば、親が心の中で「自分より偉くなるな」「自分を差し置いて幸せになるな」「親の望む通りの人生を歩め」「いつも親を必要としていろ」「私を見捨てないで」などと考えているとしたら、それは紛れもない「毒親」である。

 

***

 

本書は、「毒親」がどういうもので、なぜそのような事態が起こるのかを明らかにし、そういう事態に巻き込まれた人を救い出すためのプロセスや方法を示している(ただし、本書を読んだだけでは解決はせず、必ずプロの支援が必要と思われる)。

 

そのプロセスの最後のほうに、「本当の自分になる」という章がある。そこにこうある。

 

親(やその他の人たち)の要求や意向に影響されず自分自身の考えでものを考え、自分自身の感覚でものを感じ、自分自身の意思で行動している時、あなたは本当の自分になっている。

 

「親の言うことを聞かないと怒られる」とか、「親の言うことをきかないと親が悲しむ」とか、「親が喜ぶならやろう」とか、そういうことを考えている自分があるなら、それは本当の自分ではない。

 

ちゃんとした親に育てられたなら、親に対してそういう気遣いをする子どもとしては、育たなかったはずであるのだ。すでにその時点で親の毒素の影響を受けている。

 

本書は、事実を知るための入り口の本であり、本書のみで問題の解決は不可能であろうが、例えば自分自身が自分の親からどのような影響をうけているかを自覚したり、自分が親として自立しているか(=子どもに依存したり、支配したりしていないか)を確認するに、非常に有効な書であると思う。

 

知らず知らずのことが、子どもに多大な苦労を強いることになり、そのことで親自身も悩まねばならないことを考えると、本書のような情報に少しの時間を割くことは大きなメリットがあるのではないかと思う。

子規の毒舌評論 歌よみに与ふる書

 

歌よみに与ふる書 (岩波文庫)

歌よみに与ふる書 (岩波文庫)

  • 作者:正岡 子規
  • 発売日: 1983/03/16
  • メディア: 文庫
 

 

夏井いつき先生の俳句の本→「坂の上の雲(第2巻)」(司馬遼太郎著)→本書と、本来の時間の流れを遡る形で本書にたどり着いた。この流れで正岡子規という人物についての興味がどんどん増してきて、本書をどうしても読みたいという気持ちに駆られてしまったので(笑)。「坂の上の雲」から見れば、寄り道かもしれない。

 

しかし、この寄り道は面白かった。司馬遼太郎さんが、本書から引用していた部分があり、その子規の痛烈な言葉が興味をそそったことは間違いない。本書を読むと、夏井先生の毒舌がかわいく見えてくる(笑)。

 

歌よみに与ふる書」は、俳句読みの子規が、当時の和歌界?に対し、痛烈な評論を新聞紙上で行ったものが編集された書である。最初の稿が、明治31年2月12日のもので、それから「再び歌よみに与ふる書」「三たび歌よみに与ふる書」「四たび歌よみに与ふる書」・・・としつこく(笑)続き、ついに「十たび歌よみに与ふる書」まで続くのである。

 

この間、2/12から同年の3/4まで。たった1か月弱の間で、当時の和歌界を滅多斬りにした。もちろん、この辛口は、かなりの反論を呼び、現代的に言えば「炎上」したものと思われる。しかしながら、子規は強い。

 

反論に全く屈することなく、その反論に対する反論を次の稿で述べるのである。自身の信念に基づいているがゆえに、怯むところなし。というより、批判のための批判ではなく、衰退が危ぶまれる和歌界、あるいはそれをも含む日本文学界を中国や西洋や他国の他の文学にひけをとらない、世界に誇れる文学としたいという熱い心の表れなのである。子規は、この戦争の時代に、戦争とはまったく違う文学の世界で戦いを起こしていたのである。

 

子規は、おそらく和歌界に革命を起こすべく毒づいたのだろう。当時も優れた歌人と崇拝されていた紀貫之など完膚なきまでにこき下ろしている(「再び歌よみに与ふる書」)。

 

しかし、ただ批判するだけではない。源実朝は一流の歌人だったと尊敬の念を惜しまず、その早逝について非常に残念がっていた。力量、見識、威勢、どれをとっても群を抜いているとの最高評価だ。賀茂真淵が、その実朝をほめているについても、「それでは褒め方が中途半端だ」と、それで真淵を批判する始末だ(笑)。

 

古今集」には子規も当初崇拝していたらしいが、後になって、ダジャレと理屈の歌集だったと悔やみ、それに惚れていた自分を「女に騙されていたようなもんだ」と述べている。その「古今集」を200年も300年もたって、いまだ模倣している近代歌人は、2~300年も糟粕をなめているのと同じだと辛口評。

 

古今集」より「新古今」のほうがやや優れていると。その選者の藤原定家に対しては、評論はうまいが、自作の歌は下手だとと評した。それを狩野派の探幽と同じだとし、両名とも「傑作はないが相当の鍛錬の力はある」としている。評論の幅が広く、子規の視野の広さがうかがえる。

 

自分は、歌について論じている。その歴史に生きた人物を評価しているのではない。人物としては偉大でも、その当時の技量は、後世になれば時代遅れとなる。時代遅れのものをいつまでも模倣して進歩があるのかと。非常に合理的な考えだ。

 

「前略、歌よみのごとく馬鹿なのんきなものはまたと無之候」・・・痛烈(笑)。

 

歌読みは、「和歌が一番」とうぬぼれているが、他の文学を全然知らんではないかと。俳句と川柳の区別もわかってないだろうと。歌読みは、「調べ」のことを取りざたするが、調べには「平和的な調べ」もあれば、「切迫を表す調べ」もある。長歌の平和的なものだけが調べではない。俳句の短い文字で切迫を表現することもあると。

 

子規は、歌で「理屈」を読むなという。その論に対して、「どうして理屈を読んではいかんのか?」と反論したものがあったようだ。これに対し、子規は「文学というのは”感情”を表現するものだろ。理屈は文学とはいわん!」とバッサリ斬捨てる。終始この調子だ。

 

歌は「客観的」が好ましいとか、嘘の使い方とか、使う言葉に対する考え方(日本固有の語だけの使用にこだわらず、漢語や西洋の言葉など、近代においてはもっと取り入れて表現すればよい)、歌や句を構成する材料の充実のこと(ここでも実朝の技量をほめていた)、字余り活用の是非など、稿が後ろに進むにつれてその技量の論についても高度になっていく。

 

最後の稿では、忖度するなと、おおもととなる心構えについて述べている。偉いと言われる人だから、先輩だから、といって力量、技量があるとは限らない。元勲や大臣が偉いとも限らんと。

 

「老人崇拝の弊を改めねば歌の進歩は不可致候。歌は平等、無差別なり。歌の上に老少も貴賤も無之候」

 

なかなか痛快な本を久々に楽しめました。

 

認知症小説「老乱」

 

老乱 (朝日文庫)

老乱 (朝日文庫)

  • 作者:久坂部 羊
  • 発売日: 2020/01/07
  • メディア: 文庫
 

 引用文献のページに、早いものは2007年から2016年くらいまでの、朝日、読売、毎日各紙などに掲載された、「認知症」に関する記事が列記されており、それらの記事が本文の各章でテーマ設定的に引用されている。徘徊や火の不始末、車の事故などである。

 

また、「参考」のページには、「父の日記」太田順一著、他一冊が記載されている。
この参考の「父の日記」が気になったので調べてみると、これは写真家太田順一さんの、「干潟」の写真と太田さんの「父の日記」を組み合わせた写真集のようで、その大田さんの父の日記には、認知症になっていく自身の苦しみなどが綴られていたようだ。
干潟に残る生物(例えば貝)の動いた跡の写真と、父の生きた証跡である日記から、命というものをイメージした作品のようで、こちらも興味深い内容ではある。
 
本書の著者は医師であり、高齢者を対象とした在宅訪問診療に従事していた経歴がある。おそらく「認知症」に関する事件や事故に大きな関心を持ちながら医療に従事されていたときに、この太田順一さんの写真集に出会い、本書執筆の発想が生まれたのではないかと想像する。
 
本書は、妻を亡くし一人暮らしをしている高齢の父を、近くで見守る息子夫婦の家族の物語である。
 
徐々に認知症が進んでいく父は、自身の能力衰退を自分でも感じ、それに苦悩し、また自分なりに戦いながら、日課としている日記にその事実を記していくが、次第に日々の自分のことが分からなくなっていき、書くべきことも分からなくなっていく。
 
一方、認知症がどんどん進展していく父親の、いわゆる問題行動に巻き込まれていく夫婦の介護の苦悩、不安の模様がリアルに小説化されている。
 
父親を主人公としてみることもできるし、父を介護する息子夫婦を主人公としてみることもできる。その見方で、いずれ高齢となり、認知症となってしまう可能性を秘めた自分のこととして読むこともできるし、現在高齢の親をもつ家族の現実的な将来像として読むこともできるだろう。
 
実際の認知症の症状を知る医師が、実際にあった事故や事件からヒントを得て構成したストーリであるだけに、非常にリアルで、読者は自分にも起こりうるドキドキ、ハラハラ、そして不安や苦悩に飲み込まれていく。
 
しかしながら、認知症を治す薬は現状ない。
 
本書の中で、認知症家族に向けたセミナーを行う医師に、こう語らせている。
「さあ、ここなんです。認知症介護のいちばんの問題は、いいですか。介護がうまくいかない最大の原因は、ご家族が認知症を治したいと思うことなんです。」
 
治らない認知症を、治したいと思うことが、介護がうまくいかない原因であると。治したいと思うのは介護する側の都合であって、本人の都合でないと。
 
介護の視点を、「介護側」の都合の視点から、「本人」の視点へ転換することを助言している。難しいことではあるが、それがよいのだというのが医師である著者の主張なのだと思う。
 
これから団塊の世代後期高齢者の年代となり、この現実は急増することが予測され、現実を知るヒントとか心構えになる書であると思う。
 
自分自身の一番の感想としては、やはり「認知症にならない人生を送りたい」ということだ。本人も家族も辛いのだから。