気ままな読書ライフ

気ままな読書日記

最近の読書:「ユング心理学と仏教」

前回ブログを書いてから3週間近い。あっというまに8月も終盤に入ってきた。
蝉の鳴き声も、あのジリジリとストレスを増幅させるようなアブラゼミの鳴き声から、最近ではツクツクホウシの声が聞こえる。この鳴き声を聞くと、夏もやっと終盤にさしかかってきたかなという感触を覚える。ただ実質的な暑さは非常に厳しいものがある。
 
読書だけはコンスタントに続けたい。少なくとも冷房のきいた環境で、冷えたdrinkを傍らにおいて進めることができるのだから。
 
まず、久々に河合先生の本を読んだ。以前から気になっていた「ユング心理学と仏教」。 
世界トップクラスのユング心理学者を招いて行われるフェイ・レクチャーに日本人として初めて招聘された著者の講演が編集されている。本レクチャーは、テキサスのA&M大学の心理学科の分析心理学の講座と協力して行われたものである。
 
本書は4回の連続講演に用意された原稿に加え、「プロローグ」「エピローグ」と付録的な要素の「フェイ・レクチャー紀行」で構成されていた。このレクチャーの企画の重要人物である、A&M大学の正教授・ローゼン博士(ユング派の分析家)の「まえがき」が本書(講演)の大まかなダイジェストと言えるだろう。以下、一部抜粋。
 
第Ⅰ章「ユングか仏教か」
本書の第Ⅰ章は、河合の個人的な公案-「私は仏教徒なのか、それともユング派なのか?」-である。
公案とは、禅宗の修行僧が老師から与えられる課題のことである。
 
第Ⅱ章「牧牛図と錬金術」で河合は、個性化のプロセスが、東洋と西洋の哲学的・芸術的な一連の絵画に象徴的に、また有意なかたちであらわれていることを解きあかす。
※個性化のプロセスとは、ユング心理学における、個々の人間の未分化な無意識を発達させるプロセスのこと。
※東洋の絵画:牧牛図
※西洋の絵画:賢者の薔薇園
 
第Ⅲ章「「私」とは何か」
本書の第Ⅲ章「「私」とは何か」は、西洋の自我概念を逆転させている。河合の自我ならびに自己観は、日本の文化に根差したものだが、日本の文化においては、西洋的な観点と対立する自我ならびに自己観がみとめられる。
 
第Ⅳ章「心理療法における個人的・非個人的関係」
最後の章「心理療法における個人的・非個人的関係」は、心理療法の考え方を拡大して、沈黙したまま坐っていること、矛盾に耐え、対立するものを包摂することをも心理療法の一部にせんとしている。
 
***
 
西洋発の心理療法を最初に日本に持ち込んだのが著者であるが、文化的な背景の異なる西洋と日本では、当初そのまま西洋の形式で適応することに違和感を感じたようだ。
最初のほうで、西洋人と日本人の自我観の違いを明確にしている。すなわち西洋人のそれは、「他と区別し自立したもの<分断と表現>」であり、日本人のそれは「他との一体感的なつながりを前提としたもの<包含と表現>」としている。
 
これを起点として、求められる心理療法のやり方は、西洋と日本では異なるのであり、ユング派の基本的な理論は適用しつつも、自我観の差異を加味した治療を行う必要があると述べる。そして、この自我観の差異がどうして生じたかの分析として、日本が仏教国であることを述べていく。とりわけ仏教における「縁起」の思想に、大きな影響力があるという分析である。
 
西洋での個性はindivisualという語で表現され、これは「分けられない」という意味であり、上記の「分断」とか「自立」に通じる語である。これに対し、著者は仏教の縁起思想から生じる個性をeachnessという語を使って区別している。様々な縁が絡み合って、個々の人に固有の個性が生み出されているという発想だ。
 
人はあらゆる縁の中で生きているのであり、依存関係の中で生きている。まさに、他との一体感的なつながりの中で生きている。これが日本人の生き方の発想であり、確かに西洋の自立的な個性に基づく発想とは大きく異なる。
 
日本においては、不登校などの相談事例が多いと言われていた。また治療においても、クライアントの治療者に対する依存度は非常に強いともいわれていた。これらは、日本人全体の気質が西洋に比べて「依存が強い」傾向があるということの現象面であるともいえる。
 
このような特徴の日本において、著者は心理療法に、仏教の手法を取り入れたようである。仏教では、意識レベルの下降(意識の深層部へ入っていくこと)を、注意力や観察力を失うことなく気力を充実したままで行う方法を、瞑想、読経、座禅などの修行として開発してきたということに着目した。「自分の意識を表層から深層まで、できる限り可働の状態にしていることによって、クライアントと共に自分の行く方向が見えてくるのです」と著者は述べている。
 
ローゼン博士が前書きに記した、「沈黙したまま坐っていること、矛盾に耐え、対立するものを包摂することをも心理療法の一部にせんとしている。」の実践である。
これらの方法の実践に関し、次の著者の言葉が印象的だ。
・「心理療法によって誰かを「治す」ことはできない」
・「二人(クライアントと治療者)でいる間に、副次的に「治る」という現象が生じることが多い。
 
***
 
縁起観のベースがある文化の中で、依存が弱点とならない生き方、個性(eachness)をしっかりと持てる生き方、互いに認め合える生き方、あるいは一体感からの喪失などにより病んでしまった人に対する周囲の向き合い方などについて、著者の考えは非常に参考となる。

介護日記5:三好春樹先生のオンライン講義を聴く


介護のススメ・夏篇 講師:三好春樹 ~いい介護ってなんだろう~Withコロナの時代に濃厚接触の介護はどうなる?

 

この4月より現在の介護施設に就職したのだが、そこの施設長さんからこの三好先生のことを紹介してもらった。もちろん、この業界が初めてのこともあるが、三好先生のことは全く存じ上げなかった。今回初めて聞いて、非常にアカデミックにかつ実践的に介護のことが学べてとてもよかった。

 

仕事の技量を経験の上から向上させていくことも可能だが、もともと知らない世界であるので、もっと視野を広げて、色々な方向へ興味をもったり、探究心を広げていくきっかけとなると感じた。

 

以下、自身の受講メモを残しておきたい。但し、まったくの個人メモ的な書き方となるはずである。

 

最初に書籍の紹介

◆「認知症の人のイライラが消える接し方」 植賀寿夫 

  方法論でなく、エピソードを積み重ねていくのが介護。

 本書もそういうエピソードが満載。発刊後、さっそく重版になっている。

 

◆講師の介護職を始めたばかりの頃のエピソード

 老人が元気になった→その理由を考えてみた→嫌がることをしなかった

 ・「嫌がることをしない」というのは簡単なようで、簡単なことではない。

  (風呂に入りたくない・・・入れなくてよいか?)

 ・「自己決定の原則」ではない。これは自立した人に対する原則。

 ・専門性の高い人ほど、老人の嫌がることをしがち?

 

 いい介護をするには?・・・老人の「できること」「できないこと」を考える

 ・医学は「治す」ため、介護は「治らない」と分かったそのあとのこと

 

◆医療と介護の比較

 ・医療は「治療の場」、介護は「生活の場」

 ・医療は「非日常」、介護は「日常」

 ・医療の対象は「患者」、介護は「主体(他人が勝手に決めない)」

 ・医療の根拠は「病理学」、介護は「生理学」

 ・医療は「専門性」で対処、介護は「常識」で対処

 ※専門性(専門家)と常識(介護職)とが相反した場合は、迷わず「常識」。

  専門性は時代とともに変わることがある。常識は長年の人々の知恵の蓄積。

 

☆新型コロナ禍情勢下では、介護<医療となっている。

  感染症蔓延(非日常)で、いかに介護の原則である「日常」「主体」を守るのか。

  育児、介護はテレワークは不可。

 

  「介護の社会化」=社会で起こっていることは介護現場でも起こる。

 

  感染リスクを「0」にしようとすると、介護不可となる。介護原則は崩壊する。

  →バランス感覚と常識により、医療原則の仮説に従い、介護の原則を極力守る。

 

  マスク(医療の原則)→認知症の人はできない(快・不快の原則:フロイト

  →できない人の例外を作り、家族も含めて話し合いをし、記録も残す。

   どれだけ「いい例外」を作れるかが、現況下のよい「介護現場」

 

  医療:明日、明後日のために今日を犠牲にする(病気という特別のとき)

  介護:明日、明後日のために今日を犠牲にすることはない(今日が一番いい。

     明日、明後日になるとさらに老化する)

 

◆写真集の紹介 

オレが覗いて来た介護最前線

オレが覗いて来た介護最前線

  • 作者:野田 明宏
  • 発売日: 2020/05/08
  • メディア: 単行本
 

 

◆政治の動向

 損保会社が介護職員の配置基準の見直しを提案(介護職員を減らす提言)

  その根拠はAI(ケアプランの作成をAIにやらせる)

   ※AIにできる程度のケアプランしか作れないケアマネも多いが・・・。

   ※本当にすぐれたケアプランはAIにはできない

 

 AI化、ロボット化

  →三好先生の表現「デカルト人間機械論」

  →三好先生の代弁「ヴィーコ:すべての単純化(形式化、数量化)するあの恐ろし

   い人達」

 

◆介護という言葉:介護の「介」=媒介の「介」:きっかけになるという意味

  ヘーゲルのvermittlung(他のものを通してあるものを存在せしめること)

  →他のもの:介護職

  →あるもの:主体としての老人

雑談:介護日記4

今日は、夜勤明け。
前回の「介護日記3」も夜勤明けの日記だったが、前回に比べて今回の夜勤は、比較的平和な明けを迎えることができた。前回、けっこうパニくり、集中砲火を浴びた敗戦投手さながらであったが、今回はなんとか長打、連打を浴びることなく、無事投げ切ったという感触だ。あの集中砲火もよい経験となっている。日々の体験がそのまま学びだ。
 
夜勤明けは、完投投手のごとく、疲労感に心地よさを感じることができる。何しろ、夕方16時から翌朝9時まで17時間の拘束時間を乗り切るわけだから、それだけでも達成感は感じられる。それに加えて、体を使っての業務は、一種のスポーツ感覚もある。汗を流した後の疲労感は、苦痛というよりも快感である。
 
夜勤中に晩飯を食うが、朝の終業時には、非常に健康的に腹が減っている。と同時に脳の機能が徐々に睡魔との闘い状態に入っていく。
 
帰宅→朝飯→爆睡。つまり、仕事を全力投球→どんな朝食も美味い→強烈な濃度の睡眠、というメリハリの効きまくった時間を味わえるというのが、この第二の人生での、初体験の喜びである。「定年年齢後の夜勤は過酷ではないか」という心配があったが、むしろその心配は楽しみに変化している。
 
年齢に伴う体力面での不安も徐々に払拭されつつある。むしろ「ここまでできる俺の体って、けっこうイケるじゃん」と、自分で予想外の自分の体力に自信のようなものさえ芽生えつつある。甘えが許されない環境に身を投じることにより、逆療法的効果なのか、確実に健康は改善されている。予定外の形でアンチエイジングが進んでいる。
 
「明け」の日というのは、使い方次第でお得な日になる。
もちろん体調を整えるための日であり、睡眠不足を解消し、体力を回復させるために設けられた日であるが、濃度の高い睡眠はレム・ノンレムの睡眠サイクル1セット(約4時間)で満足をもたらしてくれる。今朝は11時ころ就寝して、お昼の3時には目が覚める。目覚めのブラックコーヒーによる覚醒がこれまた快感である。そして、さらに脳の覚醒のために、本を手に取って読む。
 
「明け」はオマケ的な休息日なので、本を読んで充実させるのも一つの手だ。
先日、阿川佐和子さんの「看る力」という本を読んだ。 
看る力 アガワ流介護入門 (文春新書)

看る力 アガワ流介護入門 (文春新書)

 

 

阿川佐和子さんとよみうりランド慶友病院の開設者・大塚宣夫先生が対談形式で進める介護のお話で、副題には「アガワ流介護入門」とある。阿川佐和子さんは、両親の介護経験をお持ちで、お父様は大塚先生のよみうりランド慶友病院で晩年を過ごされ、最後は同病院で看取られたとのこと。またお母様のこともご自宅で介護しておられ、それらの経験談を交えながら、大塚先生との対談を進められている。
 
介護される家族を看てもらう側からの阿川さんのお話、介護される人を看る側の大塚先生のお話、それぞれが違う側の視点で、本音からセオリーまで話されているので、介護に関心のある読者にとっては、「まったくそのとおり!」と共感が得られつつも、「なるほどね!」と納得のいくアドバイスに出会える本である。
 
大塚先生の開設された病院では、経験を集約され、「医療」よりも「介護」、さらに「介護」よりも「生活」にを重視して運営されている点が、他の介護施設と比して特徴的である。阿川さんのお父様が晩年、居室に電子レンジを持ち込んで、「チン」して晩酌を嗜まれた話や、居室で阿川さんも含めて焼き肉を楽しんだエピソードなども紹介されている。
 
「食べることは、人間の最後まで残る楽しみ」という生活の視点を重視しつつ、「食べることが高齢者の生きる力を測る目安として大事」という視点も失わない。介護に加えて、「豊かにすごせるような生活環境を整える。すなわち衣食住を整える」というポリシーを重視されている。
 
非常に素晴らしいなと思いながらも、自分の勤務する介護施設とやはり比較してみることになる。正直のところ、本書で述べられているものには、程遠い現実がある。カロリー制限や食事制限により、学校給食よりも食を楽しむ自由度は低い。おそらく今後、熱燗も、焼き肉も人生で味わえるチャンスはないだろうと想像する。そして、「それは悲しすぎる」と感じ、「自分は施設には入らないようにせねば」と強く思う。
 
ただ、この発想は本書の趣旨とは反する。「介護」だけでなく「生活」の要素を重視した取り組みが大事だよということだ。施設を嫌うのではなく、施設が「生活」を楽しめる場として充実させていこうということだ。衣食住の充実・・・検討の余地は多分にありそうである。
 
また本書では認知症」の話にも多数の紙面が割かれていたが、次のような内容は、医師という専門家からの意見として非常に参考になった。
 
認知症の本人は、(記憶を失っており)少ない記憶を駆使して、自分なりにベストの判断を下し、行動している。それに対し、とがめたり、諫めたりしても意味が通じず、何の役にもたたない。むしろ安心感を与えよと。
 
認知症の人に言うのと子どもに言うのとは違う。子どもは言われたことを覚えているが、認知症の人は覚えていない。認知症の人に教育的効果を期待するのは無駄。
 
認知症の進行を抑えるには、本人が周りから注目されたり、必要とされたりすることが最も効果的であるらしい。
 
・また、認知症者への対応のコツは、男女差があるようで、どちらかというと男のほうが手がかかるらしい(笑)。男はどうやら、役割とか大義名分とかが大事らしく、また数値とかランキングとかに関心があるようで、例えば役割を与えたり、競い合わせたりすることで物事へのモチベーションを引き出すことができるようだ。一方女性の方は、お洒落する仕掛けづくりが大事だと書かれていた。
 
要介護者のいる家族に対して、「介護はマラソンのようなもの(長期戦)だが、対応に必要なのは駅伝形式で」と言われていたが、これは名言だと思った。介護はいつ終わるかわからないのであり、体力の配分、経済的な計画が必要だし、実際のサポートには、できるだけ多くの人を巻き込むことの重要性が述べられていた。
 
であるならば介護職に従事している自分は、駅伝のタスキを受け継いでいる立場となる。果たしてよい走りができているのか?・・・そいうことを考えてみる機会をもつためにも、介護関連の本にも関心をもっていきたい。

佐藤優さんの「教養」とは

 

人をつくる読書術

人をつくる読書術

 

 

タイトルに魅かれて購入した。帯には、「作家、外交官、教育者、キリスト教者ー多彩な顔を持つ筆者が教える『読書の哲学』」とある。
 
そういう訳で、本書の章立ては次のようになっている。
第1章 作家をつくる本の読み方
第2章 外交官をつくる本の読み方
第3章 人間をつくる本の読み方
第4章 教育者をつくる本の読み方
第5章 教養人をつくる本の読み方
第6章 キリスト教者をつくる本の読み方
 
すなわち著者が、自身が築き上げてきた多彩な側面の礎としてきた読書について、その考え方や方法、あるいは影響を受けた本などについて述べた本である。
 
編集に対する望みを言えば、作家、外交官、・・・を通じて、総合知である「教養」を確立し、最後に「人間」をつくるという構成と内容にしてほしかった。この構成では、最終目的がキリスト教者をつくることであるかのような誤解を招く可能性もある(本書は、そういう目的の本ではありません)。
 
作家にも外交官にも教育者にも縁遠く、宗教は仏教という私にとっても、著者の人生における読書のポジショニングを学べるという点で、非常に興味深く読めた。なんといっても読書の超人なので。
 
「知の怪物」とも呼ばれる著者だが、やはり中高生の頃から大人顔負けの読書をされている(量も内容も)。そして読書環境にも恵まれていた。「私は両親をはじめとして、塾の先生、親戚、キリスト教関係の人など、その時々に応じた指導者に恵まれました」と著者は語っている。
 
その体験を通じて、「幼少期や中高生時期に、こういう読書をしておくとよい」というようなアドバイスも多く込められている。そういう意味で、本書の主な対象読者は、より若い世代と言えるだろう。
 
読んでみて「もう若い頃には戻れんよ。もはや手遅れでんがな(笑)」と感じつつ、「青春出版社」ならしかたないか・・・と許した私ですが、同社から「定年前後のやってはいけない」という本が出ているのは解せぬところではあります(笑)。
 
まず、「まえがき」で著者の「教養」の定義になるほどと魅かれました。「教養とは、想定外の出来事に適切に対処する力である」。知識の断片だけでは対応できず、情報力、洞察力、想像力、分析力、判断力など、その人の全人格(能力)が試され、総合知が不可欠で、それこそが教養だと。
 
知識の蓄積だけでは「教養」があるとは言えない!
 
以下、著者の考え方で興味深かった点。
●とにかくいろんなジャンルの本を多読することがオススメ。限られた時間で効率的に本を読むことを考えるなら「古典」(書店の書棚に10年間残っているような本)を読むのが一番とのこと。
・・・多くの人が共感できる本を読むのは、確かに効率がよいと納得。新しいものを読みたいという自然な欲望を抑えきれないのも事実ではありますが。
 
特に外交官の道では、利害の対立する国や地域、組織、集団についての知見を持つことが大前提ということで、交渉の際にも、相手の言葉だけでなく、歴史、文化、思想、宗教など基本的な思考の形態、判断、行動の基準など(内在的論理)を知っていることが重要であると。そういう場合にも相手国の「古典」を読めばそれが詰まっていると。
※「神話」には、その国民の「潜在意識」が反映されているというユングいうの考えの引用もあり。
 
小説をたくさん読むことで、重層的、複眼的視点でとらえる力が訓練できる。一面的な物の見方しかできないと、相手の言葉や反応に、好悪、善悪、是非、可不可といった単純な反応しかできなくなる。
・・・これは人間関係などでも大事な視点だなと実感。
 
「文学は一種の予防接種」という考え方も面白かった。作品には、魅力的な人物や生き方、考え方だけでなく、人間の卑俗な部分、見たくな悪の部分も描かれており、それらの疑似体験が、その後の人生で抗体のように働き、免疫力が確実にアップすると。
・・・そういう意味でも、自分の好みの枠を設けず、好みの反対側の読書もまた大事だなと感じました。
 
本書で一番面白かった著者の考え。
哲学とは思想の「鋳型」。哲学に限らず読書というのは、「型」を知るという意味で非常に大切。哲学を学べば思想の鋳型が、心理学の本を読めば心の型が、文学を学べば人間の型がわかるようになる。「型」を知り、それを身につけることで、我々はさらにその「型」を破って新しいものを手に入れることができる(これを著者は「型破り」と表現している)。
※「型」を知らずにやるのは、「でたらめ」だとも。
・・・「型」を鵜呑みにするだけでもダメで、そこを破るところまで述べているところが著者のスゴイとこだと感じます。
 
教養をつくる読書に、「通俗本」を推奨されていた。いきなり専門書に入るまえに「通俗本」を読めと。だけども、「通俗本」にも、本物の専門家が書いたものと、全くの門外漢が書いたニセモノがあるので要注意と。
 
最後に、キリスト教の話も非常に興味深かった。
ドイツの神学者シュライエルマッハーの「宗教の本質は直感と感情である」という考え、「神は人々の心の中に存在すものだ」というのは、仏教と近い考え方だと感じた。
 さらに、そのマッハーに批判を加えたスイスの神学者カール・バルトの「人間の意識と感情に神をつくる部分はあるにしても、そういう意識をもつ人間が生まれたのは、人間の外に神が存在していて、その力によって、人間の意識と感情にその種を植え付けている、影響を与えている」「不可能の可能」の考え方は、心と宇宙が連動しているとする仏教の考え方にさらに近いと感じた。
 
著者の父は無神論者で、母親は信仰深い人だった。そんな両親の両方の影響をうけながら、若いころから宗教についても、学問についても、本人の自主性が尊重されてきたようだ。学問についても、神学に興味を持つ反面、正反対と言えるマルクス主義に傾倒していた時代もあり、それらすべてが現在の著者の、客観的でなおかつ自分を失わない教養に繋がっているのだということが理解できる本でした。

出口治明さんの「教養」とは

 

 

人生を面白くする 本物の教養 (幻冬舎新書)

人生を面白くする 本物の教養 (幻冬舎新書)

  • 作者:出口 治明
  • 発売日: 2015/09/30
  • メディア: 新書
 

 現代を代表する博学・教養の人ともいえる著者が書かれた「本物の教養」についての本であるので、とても興味深く読んだ。

 
著者の教養の定義は、「教養とは、人生におけるワクワクすること、面白いことや楽しいことを増やすためのツール」とされている。補足的にはこうも述べられていた。
「人からの評価を高めたり箔をつけたりするものではなく、自分の人生をより彩り豊かにするためのもの」
 
著者は、「教養の本質」を「自分の頭で考えること」と述べている。自分の頭で考えれば、腑に落ちる。この腑に落ちるということが、行動力やバイタリティの源泉であり、本気を呼び起こすのだと。
 
うーん、この考えがすでに、腑に落ちる!(笑)
 
著者は、戦後の日本を通り越した今の日本に少々危機感を持っておられる。
戦後の日本は、アメリカを参考モデルとして、先進国にキャッチアップするという明確な目先の目標があった(著者は、ルートが見えている登山と言っていた)。それに、自然増の人口増加の流れがあった。それで高度成長がどんどん波に乗っていった。これまでは、放っておいても成長していく条件が揃っていたのであり、自分の頭で考える必要はなかったのだと指摘。
 
終身雇用、年功序列、定年の三点ワンセットで自然とうまく回り、人口増加傾向は社会保障や福利厚生を自然と潤してきたと。
 
しかし、それが通り過ぎて、周囲の競争力が高まり、人口は減少傾向に入り、夢の国はガラパゴスとなった現在、もはや「自分の頭で考えない」は通用しなくなってしまった。つまり、「自分の頭で考える」=「教養」が必要だという主張である。
 
現在の日本は、国際競争力が低いと指摘したうえで、経済社会への女性進出率が低いことや農産物の輸出量が少ないことなどは、今後の日本の伸びしろであると我が国のポテンシャルに期待している。
 
本書には、著者の流儀や技が多く紹介されている。著者自身もそれを読者に参考情報のスタンスで提供されている。つまりは参考にして、自分の頭で考えて、活用してくださいという暗黙のメッセージなのでしょう。
 
そうした意味で、一番面白く感じたのは、第3章の「出口流・知的生産の方法」。この章の節タイトル(例えば、「数字・ファクト・ロジックで考える」等)を追っていくだけで、出口流を実行するチェックリストとしても使えそうだ。
 
例えばその節では、源平の合戦で、平氏が滅んだのは、当時の西日本の気候不順というファクトが農作物の不作を生み、それが平氏の敗けにつながったという挿話を入れて説明されている。著者の豊富な知識は、本書のいたるところで教養として息づいている。
著者がいつも語られていることだが、著者自身が教養を培ったものとして「本」「人」「旅」の3つを挙げられる。本書でも、「本を読む」「人と会う」「旅に出る」の章が設けられていて、著者の体験談などが紹介されている。いずれも、その行動の根底には常には「面白い」がある。
 
「面白い」ということを自由な心で追求していくことで、こんなにもアクティブな人生を送れるものかと感じられる本でした。

 

客観的で抽象的に考える(決めつけからの脱却)

 

 先般、「意識・無意識」に関する本を読んだ際に、「意識」というのは非常に「思い込み」や「決めつけ」が多く、主観的になってしまいがちな性質があるということを知った。意識が働くと、「ああではないか」「こうではないか」と勝手な想像を巡らしがちだというのである。

 

多分それと関係するのかもしれないが、著者は「世間一般の人たちの考え方は、極めて主観的であり、大多数は具体的である」と言い、しかも「その考えがスタンダードであると思い込んでいる」ところを非常に憂いている。
 
「主観的で具体的」というのは、「自分はコレ」という考ええであり、簡単に言えば「決めつけ」である。しかもそれを標準と考えるのだから「狭いものの見方」となり、ときには感情的になりがちだというのである。
 
そこで、著者は「いろいろな問題についてどう考えていけば良いのか」という命題を立て、その答えとして「客観的で抽象的に考えよ」と提案している。もちろん決めつけているわけではなく、どうでしょうかと読者に問うている。
 
例えば「原発の問題」「領土問題」などを例に出して、「主観的で具体的」な意見どうしを戦わせていても、議論が進まないのであり、それを「客観的で抽象的」に発想を変えてみれば、議論の幅が拡大していくのではないかというようなことを述べている。この議論の幅(=発想を広げること)の大切さを特に強調していると思う。
 
事件のニュース報道で「バールのようなもので壊された」というような表現がされるが、これが「バールで」と表現する場合(具体的)と、「バールのようなもので」と表現する場合(抽象的)では、断然後者のほうが発想が広がるのであり、つまりは具体的より抽象的なほうが発想が広がるというこの説明は分かりやすかった。
 
本書のエキスはおそらくコレである。抽象化のメリットとして、「適用範囲が広がる」とか「類似したものが連想しやすくなる」などをあげていたが、これはすなわち「考えの選択肢が広がる」とか「より適切な解決が得られる可能性が広がる」ということにつながってくる。
 
現在の情報社会で、我々は一見豊富な情報に恵まれているように感じるが、それらの情報の多くは、主観的で具体的な「決めつけ」情報である場合が多い。マスコミ情報も同様である。
 
昔の取材は、記者が自ら記事を取りに行っていたが、今はすべての記者が同じ場所に集められて、提供側から出される一方的な情報をメモしているだけで、その報道を受けている我々も「主観的で具体的な決めつけ」を鵜呑みにしているだけ、というような趣旨の話が書かれていたが、これにはハッとさせられた。
 
社会がそういうスタイルになっているだけでなく、現代人そのものがネット情報を鵜呑みにするというような生活スタイルとなってしまっており、「客観的で抽象的」に考える力が退化しているというような指摘もあったと思う。
 
著者は、作家以前は、工学系の准教授として研究者の経歴をもっており、その時代の習慣はひたすら「客観的で抽象的」に考えることであったから、自分の中にその習慣が定着しているという。それもそうだろうが、そういう経歴以前に、著者自身がすでに自由度の高い発想の人であったように思える。
 
著者の話を聞いているだけで(読んでいるだけで)、非常に発想の幅が広がり、生き方の自由度が広がって、人生が楽しくなるように感じられるのは確かである。
 
著者には、ガーデニングというライフワークがあるようだが、「抽象的思考の場は、まさに自分の庭のようなものだ」と述べている。「それぞれが自分の庭という思考空間を頭の中に既に持っているのである。そこは、基本的に他者に邪魔されることなく、自分が思い描くとおりに整備することできる。」だそうである。

無意識の自動運転

例えば、「人前で話をするケースで、あまりにもいろいろなことを意識しすぎて、緊張が高まってしまい、うまく思ったことがしゃべれかった」とか、「苦手なタイプの人と会うとどうも会話をするまえから身構えて、会話がぎくしゃくしてしまった」とかいうことは、誰にでもよくあることだ。

 

こういう場合に、いろいろなことを意識したり、身構えたりするというのが、「意識」のワルサであるということがこの本に書かれていた。この仕組みを知って、なるべく「意識」を取り除き、「無意識」の自動運転ができるようになれば、人生がハッピーになるという趣旨の本である。

 確かに、意識しすぎて緊張したり、身構えたりするようなことが無くなれば、非常に生きやすくなり、無敵に感じられるようになるかもしれない。

 

この著者は、心理カウンセラーであり催眠療法による治療に取り組んでおられるようだが、その治療法よりも、その根底にある「意識」の性質を述べられた部分が非常に興味深かった。

 

「意識/無意識」ということは、心理学の世界で、フロイトユングの研究があると思う。以前、ユング派で日本の代表的な心理療法家の河合隼雄先生の「無意識の構造」という本を読んだことがある。

as-it-is.hatenablog.com

 

 意識は心全体の氷山の一角のようなもので、日常生活(意識の世界)に現れる課題は、深層心理である無意識の部分の影響によるものだから、例えばメンタルの治療には、無意識層にある根本的な原因を治療していくことが必要だというのが、心理療法と言われるものだと思う。

 

しかし、本書(「無意識さんの力・・」)の著者は、それとは違う角度で「意識/無意識」について述べられていた。

 

著者の主張は、一言でいえば、「意識」は「思い込み」や「決めつけ」が多く、「意識」に基づき浮かんだ考えや行動は、必ずしも正解とは限らないというものだったと思う。先の例で行くと、「大衆の前で失敗したらどうしよう」とか、「難しい質問が来て耐えられなかったらどうしよう」とか、「相手は自分のことを嫌っているのでは」とか、そういうのは客観的データに基づいた真実の考えではなく、単なる自分の勝手な「思い込み」「決めつけ」である場合が多いので、その意識そのものが非常にいい加減ものだということを述べられていたと思う。

 

確かに、不安とかいうものは、自分のフィルターから判断した、勝手な「思い込み」「決めつけ」かもしれない。そういういい加減なもので、いちいち緊張したり、身構えたりするというものアホらしいと言えばアホらしい。

 

著者はまた、「意識は有限、無意識は無限」ということを言っている。

これは面白い表現で、これについても色々と思い当たることがある。

 

ユングが研究した無意識の構造は、古代の仏教で説かれたものと非常に共通しているということを、ユング自身が言っている。例えば、天台宗に「九識論」という心を体系的な考え方がある。心の九階層である。

 

第五識(眼・耳・鼻・舌・身体)・・・いわゆる五感というやつ。

第六識(意識)

第七識(末那識=マナシキ)

第八識(阿頼耶識=アラヤシキ)

第九識(阿摩羅識=アマラシキ)

 

第七識~第九識が、「無意識」層ということになる。

例えば、第八識(阿頼耶識)は、人生の中のすべての行為について蓄積されたデータベース的存在である。良い行為も、悪い行為も、どんな小さな行為もすべて記録されている。経験データベースとも言ってよいし、仏教用語でいえば「宿業」というやつだ。

よく、人は死ぬ瞬間に「走馬灯のように思い出す」と言ったことをきくが、それはこのデータベースの最終処理に何か関係しているではないかなと考えたりする(笑)。

 

つまり、「意識は有限、無意識は無限」というのはなんとなく納得できる。

著者は、「無意識」には無限の可能性を秘めているのに、「意識」によって自分の浅はかな「思い込み」や「決めつけ」により、無限の可能性の目をつぶしているというようなことを述べている。だから、余計な「意識」を取り除いて、「無意識」の自動運転状態に持っていけ、というのが本書の趣旨らしい。

 

本書には、「意識」のいい加減さについては、存分に述べられているが、「無意識」の自動運転についてはまだまだ説明不足と感じる(本当は知っているが出し惜しみか?笑)。

 

本書では「奥義」として、「意識しないこと」となっている。

少なくとも、容易な「思い込み」や「決めつけ」を配することは、無駄なストレスの軽減に通じるし、可能性の拡大、他人に対して受容できる度量の拡張などに通じるように思える。そういうことが習慣化できてくれば、より「無意識の自動運転」に近づけるのかもしれない。