気ままな読書ライフ

気ままな読書日記

「宮本武蔵」 序

 

 

◆「序」

 若き日、青春小説として何度も読んだ吉川英治の「宮本武蔵」を、時を経て、なぜかまたもう一度読んでみたくなった。・・・やはり、吉川英治の渾身の一作、読めば読むほど感動も深みも使わってくるという実感だ。

 

青空文庫では「序」として一巻設けられているが、その序には、「私というものの全裸な一時代の仕事であったことにまちがいはない」と著者は本作について記している。著者もまた、作家として自分自身のすべてを投入して書きあげた作品なのだ。一剣を磨く武蔵は、筆才を磨く著者自身だったかもしれない。

 

発刊当時の序(「旧序」と記されている-S11.4 草思堂にて)には、「あまりにも、繊細に小智に、そして無気力に髄している近代人的なものへ、私たちの祖先が過去には持っていたところの強靭なる神経や夢や真摯は、人生追求をも、折には、甦らせてみたいという望みも寄せた」とある。

 

また、「はしがき」では、「宮本武蔵のあるいた生涯は、煩悩と闘争の生涯。この二点では現代人もおなじ苦悩をまだ脱しきれてはいない。」とし、「(そのような)人間宿命を一個の剣に具象し、その修羅道から救われるべき『道』を探し求めた生命の記録が彼(=武蔵)であった。」と述べている。「煩悩と闘争の生涯」は、人間としての宿命的なものであるから、いつの時代の読者であっても、また読者が何歳になろうと、武蔵はその心をつかむのだろうと思う。

 

著者は、武蔵の剣について、こう述べている。
武蔵の剣は、「殺」でも「人生呪詛」でもない。「護り」であり、「愛」の剣である。自他の生命のうえに、厳しい道徳の指標をおき、人間宿命の解脱をはかった哲人の道である。

 

とにもかくにも、この著者の思いを頭の片隅にしっかりおいて、もう一度、武蔵とともに剣の修行に出てみよう。

 

「決断力」羽生善治

いま、「将棋」と言えば、藤井翔太さんのほうが話題性は高いだろう。しかし、将棋を通した人生観みたいなものを読むとすれば、すでにレジェンドの域に入ってきた羽生さんではなかろうか。本書のプロフィールを読むと、羽生さんの本に、角川からは本書「決断力」と「大局観」というタイトルの本、PHPから「直感力」という本が紹介されており、本書以外の2冊も読んで見たいと思った。

 

また、本書に「角川の好評既刊」として紹介されていた谷川浩司米長邦雄加藤一二三、諸氏の著書にも深みを予感し、読んでみたいと感じた。

決断力 (角川新書)

決断力 (角川新書)

 

 

本書の中では、羽生さん自身が、将棋の世界を企業人の世界に置き換えて話されている部分も多いが、企業人とか将棋の世界とは別の世界で生きる我々読者が読む場合には、その逆の読み方をすることで何かが得られることを期待する。将棋の世界は勝負の世界であると羽生さん自身も言われているが、企業人であっても、ある意味勝負の世界で生きているのであり、勝負の場面での、プロの勝負師の言葉や姿勢から何かをつかみたいと思うものである。

 

本書では、勝負における「決断力」に特化して書かれたものではない。「決断力」「集中力」「大局観」「直感力」「知識と経験」など、勝負にまつわる全体的な話が、エピソードなどを交えて読めるので、とても面白い。

 

「決断力」については言えば、「決断とリスクはワンセット」という言葉があった。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という諺を引用し、「怖くても前へ進んでいく気持ち、姿勢の大切さ」について述べられていた。勝負の恐怖心について、剣豪どうしの真剣勝負の譬えもあったが、「こちらも傷を負うけれど、結果として僅かに勝っていればいい」という壮絶な精神に、将棋は我々が考える単なるテーブルゲームなのではなく、まさに真剣での斬るか斬られるかの勝負なのだと思えた。

 

囲碁には定石、将棋には定跡というものがあるが、今の将棋は情報戦で、定跡部分の技術の確立については、誰もが平等に効率的に行えるようになったそうである。そのため研究が進み、定跡が陳腐化していくスピードは格段に速くなったようだ。定跡が定跡でなくなる。さらに著者は、本当の勝負はその先にある、勝負がお互いの読みを超えた混然とした複雑化した局面の中にあるという。そこには、ただ定跡やその研究成果を覚えるという「知識」だけでは話にならず、そこから自分の頭脳で考える力が求められるという。「知識より知恵」ということがだが、それもまたただの基本であるようだ。

 

そこからさらに、短時間のうちに膨大な選択肢の中から正解を見つけること、自らミスをしないこと、冷静沈着に感情をコントロールすること、苦境に耐えしのぐ精神力、目前の恐怖に打ち勝つ勇気、捨てる勇気など、プロの勝負師のならではの領域に入っていく。そこでの戦いが勝敗の決着に結びついていく。従って必然的に、「決断力」「集中力」「大局観」「直感力」などが、勝負の世界でのキーワードとなってくるのだと理解できた。「大局観の思考の基盤となるのが、勘、直感力。直感力の元になるのは感性」という言葉が印象的だった。

 

また、実戦場面の勝負に加え、その実戦に備えるための自身の鍛錬の勝負があることが強く感じられた。備えの鍛錬には、もちろん情報収集、研究といったこともあるが、心の持ち方や、考え方の確立が非常に重要であるなと感じた。「現状に満足していては進歩はない」ということを、「環境が整っていないことは、逆説的に言えば、非常にいい環境だと言える」という考え方に整理していた。

 

著者には、「何事でも発見が続くことが楽しさ、面白さ、幸せを継続させてくれる」という考え方があり、これは実戦の真っただ中にもあるようだ。実戦のなかで、予想外の局面に苦戦することさえ、新たな発見として、楽しさ、面白さを感じているという。

 

紹介されていた米長邦雄氏のエピソードとして、50歳に近づき、それまでの座を築き上げてきた自身のスタイルを全部スクラップして、若手棋士から最新を学び、フルモデルチェンジをして新たに自分のスタイルをビルドし、その後に名人のタイトルを勝ち取ったという話にも、実戦場面以外でのプロの勝負を見た思いである。紹介されていた米長邦雄著の「不運のすすめ」や、加藤一二三著の「将棋名人血風録-奇人・変人・超人」などは、読みたい気持ちがそそられる書である。

学校に行きたくない君へ

 「全国不登校新聞」というメディアがあることを初めて知った。このメディアは、全国不登校新聞社の発刊ですでに20年以上の歴史があり、その間一度も欠刊がなかったそうである。


同社の代表理事奥地圭子さんは、1984年から「登校拒否を考える会」を立ち上げ、その翌年にはフリースクール東京シューレ」を開設するなど、早い時期から不登校やひきこもりの問題への取り組みを進めてこられた方である。

 

学校に行きたくない君へ

学校に行きたくない君へ

  • 発売日: 2018/08/03
  • メディア: 単行本
 

 

本書は、不登校やひきこもりの経験者がインタビュアとして、その自分が誰の話を聞くことが有意義かということを考えて、その対象者にインタビューを敢行することにより編集されたものである。世間一般の読者受けを考えたインタビューではなく、そのインタビュアーが個人として話を聞きたいと思う人に、その思いをぶつけながら取材をしている点が特長であり、それが本書を熱気の感じられるものにしている。

 

本書の編集長もまた、不登校やひきこもりの経験者だそうだ。そして、インタビューに答えている人たちは、それぞれにその分野で世に認められている人物であったりするが、そこに至るまでに、自らが不登校や引きこもりなどの経験をもち、それを克服して今に至っていたり、あるいは現在も「生きづらさ」と共存しながら戦っている人たちであったり、あるいはそういう生き方に強く理解を示している人たちである。

 

樹木希林荒木飛呂彦柴田元幸リリー・フランキー雨宮処凛西原理恵子田口トモロヲ横尾忠則玄侑宗久宮本亜門山田玲司高山みなみ辻村深月羽生善治押井守萩尾望都内田樹安冨歩小熊英二茂木健一郎

自分としてはもちろん知っている人物も多いが、これまで全く無縁だった人物も含まれている。また名前は知っている人物でも、成功実績などを知るのみで、そこに至るプロセスについては知らなかった人物が多い。

 

本書を読んで、いかに自分は「世間知らず」だったのかというような気持ちになった。「世間を知る」という意味を、勝手な限定的な世界を知ることと勘違いしていたのではないかと感じる。

 

本書の中で、東京大学東洋文化研究所教授の安冨歩氏は、現代人の生き方をポケモンに例えている。つまり自分自身で戦っているのではないと。そして自分自身を生きている人はどこにいるのかという問いに対し、不登校や引きこもりの中にこそいると述べている。

 

上記に登場した、インタビューを受けた側の大先輩たちの話を聞いていると、まさに「自分自身を生きる人」の実感が伝わってくる。であるので、もし現在「生きづらさ」を少しでも感じている人がいたら、本書で心にエネルギーをもらえるのではないかと思う。

 

本書のコラムで自身のひこもり体験を述べている若者が、親から言われて最も嫌だった言葉を列挙していた。
「ふつうにしなさい」
「この先どうするのよ」
「あなたのためを思って言ってるのよ」

 

「ふつう」とは何だろうか?
皆が学校へいくから、行かないのは「ふつう」でないのか?

この独断的な視点をきちんと考え直させてくれるのが本書である。

 

マイノリティが特異な目で見られるという現実に対し、宮本亜門氏は、「マイノリティは人類にとって大切な前例」であり、マイノリティをマイノリティでないものへ変えていく使命ある者と言っている。

 

西原理恵子氏は、「子どもより先に親が何を不安がっているのかを解決した方がいい」と言いきっている。先の言葉(「この先どうするのよ」等)に対する明確な答えであるように思う。

 

それぞれのインタビューのやり取りの中から、自分の誤っていた視点に気付けたり、自分に不足していた本当に正しい視点に気付くことができたりする本ではないかと思う。

「法華経の智慧」第二巻

 しばらくサボっていたブログ。久々に更新しよう。

直近(といっても夏の終わり8月だが・・・)の投稿を思い出すと、ちょうど法華経智慧」を再読し始めたところだった。もう一度「法華経」を学び直したくなったのだ。

 

ブログはサボっていたが、読書はサボらずに続けていたので、投稿ネタは幾つかある。

まずは「法華経智慧」第二巻だ。

 

 第二巻では、法華経二十八品のうち、譬喩品第三~法師品第十までの以下の八品について、語られている。


・譬喩品 第三
・信解品 第四
・薬草喩品 第五
・授記品 第六
・化城喩品 第七
・五百弟子受記品 第八
・授学無学人記品 第九
・法師品 第十

 

「譬喩品(第三)」では、有名な「三車火宅の譬え」が登場する。長者が燃えさかる家で遊ぶ子供たちに、屋外で羊車、鹿車、牛車を与えると約束することで救い出し、その後大白牛車を与えるという話だが、これは「三界の苦しみにあえぐ衆生を、声聞(羊車)、縁覚(鹿車)、菩薩(牛車)という方便を説いて救い出し、最終的に一仏乗(大白牛車)の教えを与える」ということを仏が衆生に理解させるために説いた譬喩である。声聞・縁覚・菩薩の三乗を開いて、一仏乗(仏界)を顕わしているということから、「開三顕一」を表現するものであると言われる。

 

このように、法華経には多くの譬喩が用いられており、中でも法華七譬と呼ばれる以下の譬喩は良く知られる。


・三車火宅の譬え(譬喩品)
・長者窮子の譬え(信解品)
・三草二木の譬え(薬草喩品)
・化城宝処の譬え(化城喩品)
・衣裏珠の譬え(五百弟子受記品)
・髻中明珠の譬え(安楽行品)
・良医病子の譬え(如来寿量品)

 

これらの譬喩も含めて寓話として読んでも、法華経はとても面白い読み物だが、そこに込められた釈尊の真意を知ることができれば、これは生きた哲学となる。本書は、その釈尊の真意の正しい理解のための必読書であると言える。

 

平安時代には、伝教大師が日本天台宗を創設したこともあり、その時代にも法華経は民衆の中に浸透していた。清少納言が「枕草子」で、紫式部が「源氏物語」で法華経を扱っている。かの光源氏は、天台三大部とその注釈書60巻を読了したほどの法華経通であったようだ。文学としても興味深い法華経であるが、生きた哲学としての理解を深める方向性で読み進めたい。

 

第一巻の「方便品」で知恵第一の舎利弗は、釈尊の教えを領解したが、他の弟子はまだ領解に及ばない。そこで、譬喩品で「三車火宅の譬え」を説いて、迦葉をはじめとする四大声聞は初めて領解する。四大声聞は、歓喜するとともにそのことを「長者窮子の譬え」を語ることにより、自分たちが領解していることを釈尊に伝える。

 

釈尊は、弟子たちの領解した内容を承認するとともに、さらに補うために「三草二木の譬え」を語る。このことを天台は「述成」という。譬喩で教え、譬喩で応え、さらに譬喩で補足する。ただ通り一遍の伝達ではない。こうして仏の教えを正しく領解した四大声聞には、舎利弗になされたと同様に、授記(将来成仏するという保証)が為される。

 

ここまでで領解できなかった、富楼那も五百人の比丘とともに、五百弟子受記品で授記が為される。さらに次の段階で、阿難、羅ゴ羅と二千人の弟子たちへも授学無学人記品で授記が為される。法師品においては、「一念随喜」の条件をクリアするのみで、衆生に授記が為される。

 

そして、提婆達多品では悪人・提婆達多に、勧持品では女性への授記が為される。それまでの教えでは不可能とされていた悪人成仏、女人成仏が、法華経において可能となり、「一切衆生皆成仏道」がここに完結するのである。釈尊の説く経々の中で、法華経のみが「万人成仏」を可能とする教えであるという点が非常に重要だ。

 

そして、釈尊在世当時には、釈尊の説法→弟子の領解→釈尊の承認と補足→授記(=成仏の保証)という流れがあったが、釈尊滅後の末法の今では、衆生はどのように成仏できるのかという疑問が生じる。

 

その答えとして、「末法法華経である日蓮大聖人の南無妙法蓮華経を唱え、弘めることが、末法における授記である」と本書で述べられている。日蓮大聖人の法華経が下種仏法であることから、下種=授記となることを学んだ。天台は、「授記」とは「言葉を用いて弁えること」と定義しており、それは「自覚させ、確信させる」ことであると述べられている。そうすると、「授記」の本来の意味は、何か成仏のお墨付きをもらうというような受動的な意味でとらえるよりも、弟子自らが成仏を自覚し確信するというように積極的に捉えるほうがよいように思う。

 

成仏についても、「絶えず仏界を強めていく、無上道の軌道に入ること」「生命の軌道、絶対的幸福のレールに入ること」と述べられていたことと併せて理解すると、唱題と弘教(下種)の菩薩道を自ら行い続けることが、無上道の軌道に入ること、即ち成仏への道となる。

 

第2巻では、まだ全体の10品/28品を学んだにすぎない。本書での師弟の語らいは深く、そこから正しく仏法の真意を学びたいと求道心を燃やして、集中して読んでみるが、なかなか法華経は広く深い。

 

「こころの傷が治った」

今度は、具体的な心理療法に関する本である。河合先生と同じユング心理学に基づく心理療法家・網谷先生とその師匠の織田尚生先生のかカウンセリング事例紹介本である。心が病んでしまった子どもが、心理療法により症状が改善した17事例が紹介されている。

 

 

 

一口に改善といっても簡単なことではないので、ここに示された実績は、非常に貴重なものであるということできると思う。ただし、カウンセリングの具体的内容や、そのプロセス、改善経緯などを詳細に示されたものではない。

 

読者としては、そういうところを知りたいとは思うのだが、個別のケースのそういう細かいプロセスを知ることにはあまり意味がないのだろうと思う。心が病んでしまった子どもは「治る」ということと、「治る」ためにはその家族(特に両親)が先に「治ら」なければならいということ知る必要があるのだと思う。

 

以下、本書冒頭の「この本を読んでくださる方のために」から抜粋。
 
◆わたしたちの社会
学校に行きたくてもいけない、不登校の子どもたちが、全国の小学校や中学校にたくさんいます。また一方では、別の問題として、少年の非行や犯罪の増加が社会問題になっています。・・・このような加害少年たちも、彼らに適切に対処できなかった家族も、あまりにも大きな矛盾をかかえた今の社会による、犠牲者なのかもしれません。
 
◆子どもの心の叫び
少なくとも、お母さんやお父さんが自分自身のこころを開くことができれば、傷ついた子どものこころの叫びが聞こえ始めます。・・・本書には、いろいろなこころの問題をかかえた子どもたちに対する、遊び治療や心理面接のさまざまの事例が語られています。
 
◆家族の課題を映す鏡
今の社会では、大人でも子どもでも、明るさや社交的であることがよいこととして評価されます。スポーツができることも、望ましいこととされます。これとは反対に、無口で暗い印象を与えると、周りの人たちから嫌われます。そして何よりも、わたしたちは周りの人にどのように思われているのかということが、とても気がかりです。・・・現代に生きる私たち全体が、自信や信念を持つことができず、人と強調することばかりに気を取られる傾向をもっているようです。ともすれば相手の要求に屈して、理不尽なことでも受け入れてしまいます。これは個人や家族の課題であるばかりでなく、国家の課題なのかもしれません。
 
・・・子どもたちのことを思うとき、お父さんやお母さんを含む家族のあり方を検討することは、とても大切です。・・・子どもは家族の課題を映す鏡であるともいえるでしょう。
 
◆家族が変わるためには
子どものこころの傷つきが癒されるためには、家族の在り方が変わらなければなりません。家族全体の問題です。それは何よりも、わたしたち母親や父親の問題なのです。
・・・子どもの問題が家族のなかだけでは解決しない場合、家族の誰かが窓口になって、カウンセラーの援助を受ける必要が生じてきます。
 
◆カウンセリングとは何か
こころの傷つきをかかえた人たちに対して、心理学的な方法(面接)を用いて治療者が援助する方法を、心理療法、あるいはカウンセリングと呼んでいます。ここで用いられているカウンセリングの方法は、ユング分析心理学的なやり方です。
 
・・・クライエントは、自分の生き方を自分の責任で決定する必要があります。カウンセラーが、担当している子どもたちや大人のこころから、大切なことを学び、彼らに寄り添っていけるならば、援助の道はおそらく、自然に開かれることでしょう。

 

「法華経の智慧」第1巻

発刊当初に一度読み、その内容の深さに感動を覚えた記憶があるが、今回もう一度学び直したくなり、第一巻からまた再読を始めた。
 
先般読んだ、河合隼雄先生の「ユング心理学と仏教」の中で、扱われていた仏教が「禅」及び「華厳経」であったので、さらに仏教の最高峰と言われる法華経ももう一度学んでみて、ユング心理学と仏教の関係を新ためて見つめ直してみたいと思ったからだ。
法華経は「生命論」だと言われるが、釈尊が説き、鳩摩羅什が漢語に翻訳した経典をそのまま読んでも、なかなか自力でその真意をつかみ取ることはできない。
 
本書のタイトルには「智慧」とあるが、本書で取り上げられている法華経に関する知恵は、紙面の制約もあり、ほんの一部であると思われる。それにも関わらず、本書を読んで、法華経に込められた知恵の広さと深さは測り知れないと感じ、その知恵は生活や人生に直結する哲学であると感じられる。
 
法華経にも種類があるが、本書の根幹をなしているのは、戸田城聖先生が三種の法華経と言われた、釈尊の説いた法華経、天台の摩訶止観、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経である。
 
釈尊法華経は、全部で二十八品(28の章)あるが、この第一巻では第一の序品と、第二の方便品について語られている(本書は池田名誉会長と発刊当時の創価学会教学部長、副教学部長3名との師弟対談形式である)。
 
感動ポイントは数えきれないが、主なものを記しておきたい。
まず「法華経」が釈尊によってマガダ語で説かれたということ。当時正統のバラモン教では神聖な言語とされていたヴェーダ語でしか説いてはならないとされていたにも関わらず、釈尊は民衆の日常語であるマガダ語で説いた。しかも、仏法をヴェーダ語で語る者を厳罰に処すると言ったという。
 
同様に、鎌倉時代の上流階級が漢文を用いていたが、日蓮大聖人は平仮名混じりでお手紙を書かれている(北条時頼に提出した「立正安国論」は漢文で書かれている)。
もうこの時点で、釈尊日蓮大聖人への尊敬や、教えへの信頼感が生まれてくるのであり、益々法華経を知りたい気持ちが生まれてくる。
 
第一の序品。王舎城霊鷲山に、膨大な数の衆生が参集する。列座大衆。いったいそれはどういうことなのかが明かされていく。その理解がなければ法華経は単なるファンタジーで終わってしまう。
 
集まった膨大な数の衆生釈尊の己心の聴衆であること、色々な聴衆がいたことの意味、女性が含まれていることなど、その全てに深い意味が込められている。映像としてもドラマチックである。序品では、釈尊は無量義処三昧という瞑想に入り、一言も発することなく、神通力で不思議な現象を示す。最後に、弥勒菩薩が問い、文殊師利菩薩が答える。「釈尊はこれから法華経を説くだろう」と。
 
第二は方便品。法華経の前半のエッセンスにいきなり入るが、そこに入る前に、釈尊が法を説いた場所「霊鷲山→虚空会→霊鷲山」の流れ(=二処三会)について対談が進む。これが深かった。全部について理解できていないとしても、甚深の意味が込められているということが分かる。
 
「悟り以前の現実→悟りの世界→悟り以後の現実」という流れがあった。生命論(十界論)でいう、九界→仏界→九界という流れがあった。釈尊の仏法の上求菩提という考え(従因至果の仏法)と日蓮大聖人の仏法の下化衆生という考え(従果向因の仏法)との共通性・関係性についてに触れられ、そこから実際の現実の信仰の在り方について直結してくる。ただ成仏(悟り)を目指す方向だけでなく、成仏の暁には、その仏の生命で、再度悩める民衆の中に入って救済する方向性を重視している。
 
虚空会で登場する宝塔の意味やその会座の光景など、これもまたファンタジックでありながら、そこに深い意味込められている。
 
方便品第二の部分では、方便というもの(法用方便、能通方便、秘妙方便の三種がある)について、「開示悟入(諸仏がこの世に出現した目的は、衆生をして仏知見を開かしめ、示し、悟らせ、その道に入らせるため)」について、「開三顕一(三乗(=声聞界・縁覚界・菩薩界)を開いて一仏乗(仏界)を顕す」について、「諸法実相」についてと、これまた深い対談の中から学ぶことができる。
 
「諸法実相」の部分では、DNAの世界や、フラクタル理論、アインシュタイン相対性理論ハイゼンベルク不確定性原理など、法華経で説かれていることが最新の科学によって証明されてきていることなどに触れられていて科学と仏教という視点でみても非常に興味深い。
 
ただ深いというだけでなく、その深い理解から、現実の生活や人生への知恵に結びつけられているところ、さらに実践の目標が示されているところが本書の凄いところであると思う。「法華経智慧」は全6巻あり、探究の旅はまだまだ序盤だ。

「奇跡の脳」

著者の名前は、ジル・ボルト・テイラー。ハーバード医学校での研究の傍ら後進を育成するなど、自身も現役若手の脳科学者として成功し、活躍していたが、突然脳卒中に襲われる。通常であれば、命を失うか、仮に命は助かったとしても普通の人生を失ってしまうリスクが非常に高い。
 
その体験をした本人がこの経験を通じて、「失ったこと」についてではなく、「獲得したこと」について語っているのである。しかも、その獲得したものの偉大さに自身が驚嘆し、すべての人に伝えたいという願望のもとに著されたものである。彼女は、タイム誌が選ぶ2008年の「世界で最も影響力のある100人」の一人にも選ばれている。
 
他者が簡単にできるものではない貴重な体験レポートであるだけでなく、脳科学者が自身の脳疾患中の体験を通じて、脳科学の検証をした点が非常に興味深く、また信憑性の高い内容であると考えられる。
 
彼女は、37歳にして脳卒中に襲われ、4時間後には左脳のほとんどの機能を失ってしまった。死を覚悟し、生きる機能を奪われた自分が生きる意味もないと考えた。そのような状態にまで至った彼女が、いったい何を獲得したのか。
 
少なくとも2つの偉大なものを彼女は獲得したと本書を読んで感じた。
一つは、失われた左脳の機能を、ほぼすべて取り戻したということ。それは取り戻したというよりも、努力によって新たに構築したというほうが正しい。忘れてしまった言葉、単語のスペルや意味、人間関係、車の運転の仕方など、すべての生活に関わる行動について、優れた母親のサポートを受けながら、一から努力で積み上げていき、短期間で以前と同じレベルにまで自身を復元した。脳の機能の復元の力と人間の忍耐と努力の凄さを実感できた。
 
例えば、ソリティアができるようになるまでに3年、滑らかなリズムでの歩行に4年、同時作業(電話しながらパスタをゆでる)に4年、足し算・引き算4年半、割り算5年、一段飛ばしで階段を上るのに6年を要したという。それも涙ぐましい努力につぐ努力の末にである。そして、こうして再び専門性のある脳科学を人に語れるレベルに到達したのである。この努力による左脳機能の復元とそれによる人生の再構築の実績だけでも驚嘆すべき内容であると思う。
 
それに加えて、もう一つ、左脳を失ったことによって得た右脳マインドの獲得体験が偉大だった。
 
左脳は「やる(doing)」意識を司り、右脳は「いる(being)」意識を司るという。人間の大脳は、形状は左右対称に見えても、その機能はまったく異なり、相互に補完しあっているという。これは脳科学の常識的な知識だ。
 
しかし彼女は、脳卒中により、左脳の機能が無くなった場合に、人間はどうなるのかを自らの体で体験した。左脳の後部図頂回にある方向定位連合野を失い、自らの身体の境界を判別する機能が失われ、自分の体が宇宙に溶け込んだような感覚を体験したという。
 
左脳がもつ「好き・嫌いの分別、階層別に情報分類し、批判的判断・分析をし、自分と他人を比較する」というような機能も失い、逆に右脳がもつ「平和や愛や喜びや同情などを感じる」機能が強調され、非常に幸福感に満たされたという。彼女はこの状態をニルヴァーナ(涅槃)と表現した。
 
よく聞く臨死体験の快感にも似た感じだ。
さらに、左脳機能が全く失われている入院初日は、話す言葉は全く理解できなくても(左脳の言語中枢の喪失)、話す人の顔の表情や身振りか ら多くのことが読み取れたという。さらに人によって、エネルギーを与えてくれる人と、奪う人がいるのを感じたという。
 
こうして、体験を通じて、これまで優位であった左脳機能(右利きの人、および左利きの60%は左脳優位らしい)を失うことにより、右脳機能のすばらしさを改めて認識した著者は、それらの意識的コントロールによって人生を豊かに生きることができると述べている。
 
あらゆることを「正しい・間違っている」「良い・悪い」で判定する左脳の機能に対し、現在の瞬間の豊かさを感じ、感謝の気持ちをもち、子どものような好奇心を感じる右脳の機能をバランスよく取り込むことを提案している。
 
左脳は、過去や未来を扱い、すでに起きたことや、まだ起きていないことを考え、恐れや不安を引き起こす。その生理的感覚の持続性は90秒であり、意識的にそのループから逃れるために、90秒で現在を扱う右脳マインドへ切り替えてみるという手法も紹介している(彼女は、①魅魅惑的なことを考え、②ものすごく楽しいことを考え、③何かやりたいことを考える、ということでマイナス思考のループから抜け出すという)。
 
「たとえ不愉快な出来事でも、右の脳の領域に一歩踏み込んで共感を持ってあたれば、人生の価値ある教訓として受け止めることができる」とも著者は言う。
 
途中、左脳と右脳の特徴を分類している中に、ユング心理学のいう「思考型の心」「感情型の心」は左脳、「直観型の心」「感覚型の心」は右脳によるとされていた。
先般読んだユング心理学の本でいう「意識」は左脳的であり、「無意識」は右脳的であるなとも思った。ユングも「意識」を「無意識」でコントロールできるとしており、左脳の発想を右脳でコントロールすることと似ているようにも感じる。
 
さらに、著者は右脳の働きである「宇宙との一体感」を感じること、や「感謝の気持ち」が人生を豊かにすることにおいて大切さであると主張していた。
 
自分自身は右利きであり、恐らく左脳優位である。本書を読んで、右脳マインドを意識することで、新たな自身の開発につながるのかもしれないと感じている。もう少し、脳科学の本を読んで見るのもよいかもしれないなと思った。