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宮城谷「三国志」リベンジ

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今週の水曜日から、通勤本が宮城谷「三国志」の第一巻になった。ハードカバーを通勤カバンに入れると少々重量を感じる。

 

「文藝春秋」で平成13年5月号から連載が始まった。

歴史好きの先輩から勧められて読んだ「晏子」や「孟嘗君」が非常に面白かったし、その先輩が「いよいよ次は三国志だぜ」とこの連載を非常に喜んでいたので、ぜひ読みたいと思っていたのだが、この第一巻を買って途中で挫折した。

 

そういうわけで今回は、リトライということになる。

最初に楊震の「四知」の話から始まる。この始まりは、著者の構想10年の中で思慮を尽くされた始まりのようだ。

 

「四知」とは、「天知る、地知る、我知る、子(なんじ)知る」のことで、誰も見ていないからと言って袖の下を出された楊震が、「どうして誰も見ていないといえるのか」とこの「四知」を示して断ったエピソードが紹介されている。

 

「天網恢恢疎にして漏らさず」とも似た意味合いの言葉だ。

昨今では、企業倫理、いや企業に限らず倫理感の基本となるような言葉かもしれないなと思う。

 

まだ序の口を読んでいるところで、楊震の活躍シーンはまだ出てきていないが、この人物の清廉潔白な性格は自分の中で強調された。

 

時代は後漢の時代であり、著者が用意してくれた光武帝からの系図を見ながら、読み進めている。

 

楊震が出仕して7年目に和帝が崩御した。

和帝は光武帝から数えて4代目。その和帝の皇后が鄧太后で、その太后が権力を掌握していた。その太后楊震は能力を認められ抜擢された。

 

権力には、権力の敵がいる。太后とその兄による政治運営はむしろ謙虚で安定感があったが、敵としては隙あらばと反撃をうかがうものである。

 

太后は幼い皇帝を補佐する摂政的なポジションにあり、当時幼少だった安帝に変わって政治運営をしていたが、安帝が成人してからもその体制を変えなかったために、安帝自身から非常な反感を買うこととなった。

 

そうしているうちに、太后が亡くなってしまい、ここぞとばかりに安帝勢力は、太后関係者をことごとく排斥してしまった。

 

安帝が優秀な帝であればよいのだが、その逆ときており、太后側に所属していた楊震がどのようになっていくのか、というのが目下の関心事である。

 

やはり第一巻の導入部は、少々解説が混み入っていて、ひとつひとつ抑えながら読まねばならずページをめくるスピードがスローだった。おそらく著者も史料と格闘していた部分だろう。

 

そこから著者の中でこなれて著者自身の文章が湧き出てくると、こちらものめり込んでいくことになるのだろう。

 

まぁ、焦らず、楽しみながらゆっくり歴史の旅をしよう。

 

 

三国志 第一巻

三国志 第一巻