重庵の転々
昨日から読み始めた司馬遼太郎の短編「馬上少年過ぐ」の第二編めは、「重庵の転々」というタイトル。タイトルだけでは想像がつかなかったが、読み進むうちに、重庵とは人物の名前であることが分かった。そして、最後まで読み進めて、これは著者が実在の人物の名前を、この小説の中で一文字だけ変えて使ったのだということも分かった。
実在の人物とは、山田文庵という名で、もと土佐の浪人だったが、南伊予の山中に移り住み、そこで医術を施していた。
南伊予といえば宇和島。この四国の宇和島に、あの仙台の伊達家の殿様が来た経緯を、本編を読んで知ることができた。仙台と愛媛とはあまりにも距離がある。
仙台伊達家の中興・伊達政宗の長子は秀宗。秀宗は、大阪の秀吉のもとに人質として送られ、秀吉はこの秀宗を非常に可愛がったようだ。ところが、天下が秀吉から徳川に変わり、政宗は仙台伊達の相続者として、秀吉とつながりの深かった秀宗をたてることを避け、次男の忠宗をたてた。
しかし、徳川はその政宗の心事をあわれみ、長子秀宗のために伊予宇和島十万石を用意してそこへ移した。これが宇和島に伊達家の分家ができたいきさつだそうだ。
その伊達秀宗には、4人の子どもがあり、その末子の宗純が腫物の病となり、それを文庵が治療し完治したことから、文庵の名前は一躍有名となったようだ。
この文庵は、医術だけでなく、剣術のほうも凄腕で、途中から名を山田仲左衛門と変え武士として、宗純に仕えていたようだ。ところが宗純との関係が深まっていくについて、次第に政治的な面にまで口を挟むようになり、いわゆる「山田騒動」が起こった。その騒動の経緯については、宇和島市のホームページに市指定の「八列士の供養碑」の開設のページに詳しく紹介されていた。
https://www.city.uwajima.ehime.jp/site/sizen-bunka/135hatiressi.html
文庵の転々・・・・土佐出身の文庵は、最後、仙台でその生涯を閉じたようだ。