山本周五郎の戦中日記
今日が、74年目の終戦記念日ということで、少し前に読んだこの本のことを書いてみよう。この本は、いい本だったと思う。
この本は、山本周五郎(本名:清水三十六)が作家として、当時多くの作家が暮らしていた東京大森の馬込文士村で、1941年(昭和16年)12月8日から1945年(昭和20年)2月4日までの生活していたときのことを記した日記だ。
当時、周五郎は38歳、妻と長男10歳、長女8歳、次女6歳、その後にもう一男生まれるが、戦時下の非常に厳しい環境の中で、筆一本で家族を支えながら、作家業に奮闘する日々が記されていた。
12月8日の日本軍真珠湾奇襲のその日から日記が始まっている。当時の戦時下の人々の暮らしぶりが生々しくわかるし、そういう環境下での作家がまたどのような暮らしぶりだったのかも知ることができる。
プライベートな日記が編集されたものであるが、秀逸な文章は当時をリアルに再現してくれる。しかしながら、この大文豪でも、自分の日記中には誤字が多いんだと変な驚きもあった(笑)・・・編集者はママとして表記している。
この頃、周五郎は作家としてもっとも油ののってきた頃かもしれない。いつも数本並行で原稿を抱えていたようだ。自宅への来客は多く、親戚、知人、それに各出版社の編集が入れ替わり立ち代わり原稿を取り立てに来訪する。
周五郎は主に夜中仕事のようだ。仕事にいかに集中できるか、原稿の締め切りまでのペース配分を入念に練っているのだとは思うが、いつも来客で時間を食われたり、折り重なる空襲警報のため突然時間を奪われてしまうことがしばしばだったようだ。
空襲警報は終戦に近づくにつれ激しくなっていき、そのなかで彼は自分の命よりも、妻子の命を失うことに恐怖を抱きはじめた。そしてその恐怖と闘うために、逆に執筆業に全精力を注いで恐怖から逃れようとしていたという印象を受けた。
一方、周五郎は、執筆上のストレスを食と酒で解消するタイプのようで、日記のいたるところに、食のこだわりやの話や、来客との酒の談笑の話や、二日酔いの朝の話などが登場する。戦時下でも、洋酒やワインを飲んだり、ステーキを食ったりと、けっこう富裕な生活をしていたようだ。
しかし空襲は誰の頭上にも平等に襲ってくる。空襲警報に寝込みを襲われたり、ひと箸いれたところで壕への避難を強いられたりと、当時の人々の避難生活の様子もリアルに記されている。
ある日の日記ではこんなことが書かれていた。
「しかし、過去の多くの体験はいつも己を成長させることに役立ってきた。困難はいつも己を磨く役割をつとめた・・・」
「しかし、過去の多くの体験はいつも己を成長させることに役立ってきた。困難はいつも己を磨く役割をつとめた・・・」
山本周五郎の作品を裏付ける一言のように感じた。
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