休日のほっと一息
今日は11月3日「文化の日」。そして読書週間のうちの一日でもある。
とういうか、この読書週間というのは、文化の日を中心に「10月27日~11月9日の2週間」と定められたようである。そして、その始まりの10月27日は「文字・活字文化の日」とされている。まぁ、読書週間だから本を読むというわけでもないのだけれど、読書にスポットがあたる時期があるというのは、なんとなくうれしい。今年の読書週間のポスターはこれだそうだ。
個人的には、昨年のポスターが好きだ。なんとなくホッとするので。
「ホッと一息、本と一息」・・・いいフレーズだ。
今日は、ほっと一息のためにマイデスクにマイコーヒーサーバーを設置した。これは個人的に非常に嬉しい。ささやかな喜びであるが、この昨年のポスターの環境が、やっと一年遅れで実現した(笑)。
この「ホッと一息環境」が整ったところで、このブログも少し肩の力を抜いて、気楽に書くことしようと思う。けっこう「読書記録」の体をなす記事を書こうと意識してきたが、結局のところ「伸び伸びと書く」という楽しさが半減するように感じる。今日よりは、より「気まま」度が増すことになりそうだ。
それと、ノートPCのキーボードは書きづらくて不満だったので、ワイヤレスキーボードとワイヤレスマウスを付けた。デスクトップ型への変更も考えてみたが、そこまで変更せずとも、これで十分環境は整った。
ところで、読書週間中の最初の読了は、三木清氏の「人生論ノート」となった。いつだったか購入して、最初のほうをちょこっと読んで、「こりゃ難しそうだ」ということでそのまま積本にしていたものだ。
「難解」というイメージを抱いたままであったが、厚さ的には少し気合を入れれば読み切れそうな厚みであり、それにこの鉛筆のデザインの表紙はどういうわけか向学心を高揚させてくれる。そういうわけで読書週間にリトライしてみた。
「死について」から始まり、「幸福について」「懐疑について」「習慣について」、、、と23のテーマについてのエッセイが収められている。いきなり「死について」が来て、2番手が「幸福について」という構成もまた興味を感じた。
三木清は1897年生まれで、本書の本人による「後記」に記された日付が1941年だから、44歳の時の執筆ということになる。最初の「死について」の中で「四十歳をもって初老とする」という言葉が出てくる。当時の寿命は50歳とか60歳とかで、三木清の44歳というのはカンペキな初老にあたっており、そういう年齢になってくると「死への恐怖」が無くなってきたと言っている。
その秘訣について、生きているときに「執着」するもの、真に愛するものを持つことだと言っている。そうすれば死後自分が帰っていくところをもっていることになるという。そうなれば「永生」を手に入れたことになるのだと。つまりは生きているときも、死んでからも自分の愛するもの執着するものに生きていけるということなのだろう。三木さんは死ねば死後の世界で、先に亡くなった友人たちと話ができる可能性を信じており、生の世界と死の世界での連続性を考えておられるようだ。
いずれにしても、三木さんは「死の恐怖」というものを克服することが一番大事と考えたのだろう。そしてその次に大事なのが「幸福」ということを知ることだと考えていたのではないだろうか。
三木さんは、当時の日本で「倫理」について書かれた書物の中に、「幸福」についての記述がないと嘆いているようだ。古代ギリシャの時代から倫理が語られるとき「幸福」は必須だったはずであるのに、それが全く見当たらないという。
それはあたかも、当時「幸福」ということを語ることががタブーとされ、書物の中から消し去られてしまったその現象に、三木氏が「そりゃおかしいだろ」と暗に抗議しているかのようである。
こんな調子で、三木さんはご自身が選んだ23のテーマについて、哲学し、ご自身の考えを述べられている。
「虚栄心」と「名誉心」は混同されやすいという。これほど区別することが重要なものはないのに、これが混同されいていると。この区別をすることは、人生における知恵の少なくとも半分に当たるとまでいわれる。
確かに、自分に誇らしい成果があったとする。その誇らしい気持ちは、虚栄心なのか名誉心なのか?その誇らしい成果について、自分はどのような態度をとるだろうか?
三木さんは「虚栄心は社会を対象としている。名誉心は自己を対象としている」という。次には「虚栄心が対世間的であるのに対して、名誉心は自己の品位についての自覚である」と述べる。
別のところでは、「虚栄心の虜になるとき、人は自己を失う」といい、「評判を気にすることは名誉心ではなくて虚栄心に属している」と述べている。
誇らしい成果を、自分自身にとっての勝利と考えるのか、他人への自慢材料とするのか、そういう心の持ち方の違いが、人生の価値の半分に影響を及ぼすということだろうか。「するどい指摘だなぁ」と自分は感じた。
その他のテーマについても、考えさせられるところが多々あったが、今日のところはこのあたりでおしまい。