気ままな読書ライフ

気ままな読書日記

「坂の上の雲(1)」の「ほととぎす」の章、「軍艦」の章

 

「ほととぎす」の章。「この年、子規は健康ではない。」という一文から始まる。

ちょうど、先日読んだ夏井いつき先生の「子規365日」(kindle版)に、子規の年表が掲載されていたので、そのスクリーンショットを参考にしてみる。

 

18歳で東京大学予備門に入学しており、俳句を作り始めていた。その大学予備門の寮生活をしていたが、その寮から旧松山藩の書生寮である常磐会の寄宿舎に移った。明治22年(1889年)、子規23歳。

 

前年の夏に、鎌倉で喀血して、医者へいったら肺結核であると告げられた。当時の肺結核は、死病とも呼ばれていたが、子規はどういう神経の持ち主だったのか、それに打ちひしがれる様子もなく、むしろそれを人生を語る題材と扱っているかのようである。

 

ホトトギスが、「血に啼くような声」だというが、そのニュアンスは自分にはよくわからない。「血を吐くまで泣いたから」ホトトギスの口の中が赤いという例えは、わからないでもない。いずれにしても、喀血した子規は、みずからの号を「ほととぎす」とした。

 

肺煩いに苦しみながらも、食は太く、健啖家と言われている。スッポンの生き血を平気ですすり、その肉は好物であったようだ。安静を求められる病にもかかわらず、じっとしていることが嫌いなようで、まったく不治の病である自覚がないかのようである。

子規の野球好きは有名だし、現在使われている「野球(=ベースボール)」という言葉をはじめ「打者(=バッター)」「死球(=デッドボール)」「飛球(=フライ)」などは、子規の翻訳によるものであることも有名な話だが、このころ結核の体で野球も楽しんでいたようだ。

 

子規が松山に帰り、広島の江田島に移転した海軍兵学校に通う幼馴染の真之と再会を果たす。子規と真之は、「昇」「淳」と呼び合う親友である。その淳は、昇のことを、「結核にかかってもたじろぐ気配なし」と語っている。子規は、豪胆なのか、鈍感なのか、楽天家なのか?

 

場面は変わって、「軍艦」の章。

海軍兵学校に通い真之は成績抜群で、後輩の入学の際には、オリジナルの過去問集(つまり真之自らが作った試験問題の「傾向と対策」)を渡している。あまりにも完璧すぎるまとめに驚き、それを利用するのは卑怯ではないかと躊躇する後輩に、「試験は戦いと同様のものであり、戦いには戦術が要る。戦術は道徳から解放されたものであり、卑怯もなにもない」と言ったという。もうこのころから真之は切れ味抜群だったようだ。

 

この章では、タイトルのとおり、軍艦について書かれている。

当時の日本海軍の軍艦は、ちっぽけなものだったという伏線だ。記述によれば、維新成立後20余年、列強の登用艦隊の軍艦からみれば、性能は論外、老朽艦や鉄骨木皮の軍艦で、鉄鋼の軍艦と言えば、高千穂、扶桑、浪速、高雄、筑紫という3000トン~1000トンの小ぶりな軍艦がすべてだった。一言で言うならば「貧弱」であったということだ。

 

それに対して、清帝国の軍艦は、すでに近代化が図られ、北洋、南洋、福建、広東、そして世界最強の軍艦である定遠鎮遠が整備されていた。定遠は、7000超トンである。

 

これはこの時期における日本と清との、圧倒的な軍事力の差をビジュアル的に述べたものである。

 

この次の章タイトルは、「日清戦争」。果たして、どのような戦いが描かれているのか。

 

 

坂の上の雲(一) (文春文庫)

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