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「坂の上の雲(1)」の「日清戦争」の章~「威海衛」の章

この前「軍艦」の章では、清帝国の軍艦と日本の軍艦の規模の差が明確化されていた。世界最強の軍艦をもつ清帝国に対し、老朽艦や鉄骨木皮艦、あるいは鋼鉄艦でも規模の劣る艦隊を率いる日本では、最初から誰もが清帝国の圧倒的優勢を信じ、日本の劣勢は日本国内でも共通の認識だった。

 

日本はまだ近代化をついこの前始めたばかりであり、列強の英米仏独露に比べ、「日本は巨獣の中の虫ケラ」と表現されていた。その西洋との400年の遅れを取り戻すべく、急激なピッチで西洋化を進めていたところである。

 

地理的には、日本の防波堤的な存在が朝鮮であった。朝鮮を他の強国に奪われた場合、日本の存在そのものが危ぶまれることとなるため、李鴻章伊藤博文の間で「天津条約」が取り交わされていた。これは朝鮮半島の独立保持のための条約であった。

 

ところが、朝鮮において、儒教、仏教、道教の各信徒による東学党の乱(内乱)が勃発し、政府軍をも破ってしまうほどの勢力と化したため、政府がその鎮圧を清国(袁世凱)に要請した。この動きにより朝鮮をめぐる、日本と清国の関係が一触即発の関係となった。

 

小日本は、清国に対抗するため、軍のプロシア化を促進したのである。参謀本部方式(プロシア主義)と言われ、いわゆる「勝つためのシステム」と言われた。ドイツに派遣され、1年半ベルリンに滞在し、参謀本部の組織と運営を研究した川上操六参謀次長によるものである。

 

プロシアでは「国家が軍隊を持っているのではなく、軍隊が国家を持っている」と考え、参謀本部の活動は、政治の埒外に出ることもあり得ると考えていたようだ。この発想はどこかで見たものと同じである。

 

すなわち、太平洋戦争下における国家と陸軍参謀本部との関係と同様なのである。つまりこのとき取り入れられたプロシア主義は、そのまま太平洋戦争の終結まで、日本の軍隊の特徴であり続けたということだ。

 

プロシア主義で見られる、「戦いは先制主義」「はじめに敵の不意を衝く」「諜報」というやり方は、この時のプロシア化によって、それが日本の戦争のやり方になってしまったのだということが、本書を読んで初めて理解できた。

 

清国艦隊と日本艦隊の戦い。清国北洋艦隊の司令長官は丁汝昌、日本連合艦隊の司令長官は伊東祐亨。豊島沖、黄海、威海衛の3つの水域で、海戦が行われた。

 

この海戦で、予想を覆し日本が勝利を収めることができたのには、それなりの根拠があった。まず物理的な戦力について、次のように分析されていた。

 

日本連合艦隊は、軍艦28隻、水雷艇24隻、総計59069トン

清国海軍は、4大艦隊で、軍艦64隻、水雷艇28隻、総計84000トン

 

であったが、清国が実際にこの海戦で出動したのは、北洋艦隊の軍艦25隻、水曜艇13隻の総計5万トンであった。すなわち、実質的な軍隊の規模では、互角かむしろ日本海軍のほうが優勢だったということだ。

 

また、日本兵と清国兵の戦いに対する士気の強弱に大いに差があったようだ。清国兵には、国のために命を捨てようと考えるほどの士気はなかったが、日本兵はそうではなかった。

 

また、軍編成について、日本軍は純粋な日本兵であったが、清国軍では雇いの参謀が欧米人であったり、艦隊顧問が英国人大佐であったりで、司令側と兵士との間の言語的コミュニケーションが成立していなかったことが致命的であったようだ。

 

そういう意味で、清国北洋艦隊の司令長官・丁汝昌は戦いの環境に恵まれていなかったと言える。彼は旅順での戦いで清国陸軍が不利に追い込まれた際に、海軍が助ける提案を行ったにもかかわらず、その提案は却下され、のちになって救援しなかったという理由で処罰されたという。実際には、その時の陸軍司令官が無能で救援を断り、自滅したというのが事実であったようだ。

 

最終的には、威海衛の戦いで、伊藤艦隊は魚雷攻撃により丁清軍を攻め込みつつも、丁汝昌の戦いに同情し、降伏をすすめる書状までしたためたようである。

 

学校の歴史の授業では、「日清戦争では日本が勝った」という単純な理解のみであったが、この小説でこの戦いの様子を生々しく知ることができた。

 

 

新装版 坂の上の雲 (1) (文春文庫)

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