気ままな読書ライフ

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トルストイの生命観

 

人生論 (新潮文庫)

人生論 (新潮文庫)

 

 

本書のタイトルは「人生論」であるが、内容は「生命」についてのトルストイの考えがまとめられた論文である。いきなり本文から読み始めるより、巻末にある翻訳者・原卓也氏の「解説」を先に読むほうが、予備知識が得られるので、少しは理解しやすくなると思う。
 
自分の場合は、最初から読み始めて、ぼやーっとした理解のまま読み進み、最後の「解説」を読んで、ある程度頭の整理ができたように思う。もちろん、消化不良もたくさんある。
 
まず、「解説」を読んで、ロシア語と日本語の違いが、本書のタイトルに影響していることがわかる。日本語でいう「生命」「生活」「人生」「一生」というような言葉は、ロシア語ではすべて「ジーズニ」という一語で表現されるらしい。であるので、トルストイは「生命」について論じたのであるが、最初の訳でその「ジーズニ」という単語は、「人生」と翻訳され、それで本書は「人生論」となったようである。
 
翻訳者の「解説」に、本書のエッセンスに関する記述があったので、そのまま引用する。
 
トルストイはこの論文の中で、人間の生き方を「生存」と「生命」とに区別して考えている。「生存」とは、人間の一生を誕生から死までの時間的、空間的な存在として捉え、その期間における個我の動物的幸福の達成を一生の目的と考える生き方をいう。これに対して「生命」とは、人間の一生を誕生と死という二つの点で区切られることのない、永遠につづくものとして捉え、その間、自己の動物的個我を理性的意識に従属させて生きることをさす。”
 
純化していうと、生まれてから死ぬまでただ「生存」しているような生き方と、自分の命を永遠と捉え(=生命)、理性的に生きる生き方とがあり、後者の生き方こそが真の幸福をつかめる生き方であると結論づけている。
 
これを仮に「生存の生き方」と「生命での生き方」とすると、たいていは「生存の生き方」に終始しているとトルストイはいう。その生き方の人は、生まれてから死ぬまでの間に、なるべく快楽を感じられるよう、また苦しみから少しでも逃れられるよう頑張って生きる。
 
しかし、世の中の誰もがそれを互いに求めており、競い合っているという。快楽の獲得競争であり、苦悩の押し付けあいの中で生きている。いわば利己的な生き方であり、せいぜい人と比べて、ある一部だけは自分が勝っていることに満足を感じ、そうでないときに不満を感じ苦悩を感じる。どちらかというと、欲求が満たされず、苦しみから逃れらないことが多く、苦悩と煩悶の連続と感じるのが、この生き方の人生である。
 
しかも最後には、すべてが無に帰する「死」があり、それが訪れる恐怖と隣り合わせで生きる人生では、真の幸福は絶対に得られないという。
 
では、トルストイがいう、真の幸福を獲得できる生き方とはどのような生き方なのか。
「生存」の生き方が、自身のための幸福追求であり、自己愛のみの動物的な生き方であるのに対し、そこに理性を取り込み、自己愛のみから脱却し、他者の幸福を志向する生き方が重要であるという。
 
愛の大きさを分数式に例えるユニークな発想が示されていた。分子は他者に対する好意や共感、分母は自分自身に対する愛とする。分子の大きさで愛の大きさを測るのが一般的な考えだが、むしろ分母の大小を考えることが、「生存の生き方」で終わるのか、そうでないのかに関係すると。
 
もう一つは、生命の永遠性をトルストイは訴えている。肉体は滅びても、生命は始めもなければ終わりもなく永遠に存在し続けるものと捉える。これは仏教的な発想に近い。
肉体が滅びたら終わりと考えるのが「生存の生き方」だが、「生命での生き方」はそうではなく、ある意味「死」の恐怖は伴わない。
 
このような表現があった。
「動物的個我は、自己の幸福の目的を達成するのに用いる手段である。人間にとって動物的個我とは、働くのに用いる道具である。」
 
動物的個我とは、生まれてから死ぬまでの「生存の生き方」の意味だが、これはこの一生の肉体は、永遠の生命により幸福の目的を達成するための手段であり、道具であるとトルストイは言っているのだと自分は理解した。そう考えると、他の人から小さな快楽を奪い合ったり、苦しみを押し付けあったりする生き方にのみ固執するのは、単なる道具に固執しているだけであって、全く真の幸福追求に無関係の生き方のように思えてくる。
 
そういう小我を捨てて、永遠の生命を感じながら他者への愛に全力を尽くす生き方が最も幸福な生き方であるとトルストイは述べているのだと理解した。
 
この論文をトルストイが書くきっかけとなったのは、自身が大病を患い、死をも直感したことだったという。随所に聖書の引用はあるが、この考えは宗教の範疇を越えていたようだ。「正教の教義に対する不信を植えつけ、祖国愛を否定している」という理由で、当時発禁処分となっており、後年に世に出たものである。
 
トルストイ自身も「人は常にあらゆることを、信仰を通してではなく、理性を通じて認識する。前には理性を通じてではなく、信仰を通じて認識すると説いて欺くことが可能だった。」と述べているように、本書の考えも自身の理性から紡ぎ出されたものであろう。
 
自分は、仏教の思想に多くの共通点を感じたが、トルストイが仏教の影響を受けて述べたものではなく、偶然そのような結論となったという点にも非常に興味深く感じている。
 
理解不十分の点も多いが、とりあえず一回目読了時のメモとして記しておきたい。