気ままな読書ライフ

気ままな読書日記

最近の読書:「ユング心理学と仏教」

前回ブログを書いてから3週間近い。あっというまに8月も終盤に入ってきた。
蝉の鳴き声も、あのジリジリとストレスを増幅させるようなアブラゼミの鳴き声から、最近ではツクツクホウシの声が聞こえる。この鳴き声を聞くと、夏もやっと終盤にさしかかってきたかなという感触を覚える。ただ実質的な暑さは非常に厳しいものがある。
 
読書だけはコンスタントに続けたい。少なくとも冷房のきいた環境で、冷えたdrinkを傍らにおいて進めることができるのだから。
 
まず、久々に河合先生の本を読んだ。以前から気になっていた「ユング心理学と仏教」。 
世界トップクラスのユング心理学者を招いて行われるフェイ・レクチャーに日本人として初めて招聘された著者の講演が編集されている。本レクチャーは、テキサスのA&M大学の心理学科の分析心理学の講座と協力して行われたものである。
 
本書は4回の連続講演に用意された原稿に加え、「プロローグ」「エピローグ」と付録的な要素の「フェイ・レクチャー紀行」で構成されていた。このレクチャーの企画の重要人物である、A&M大学の正教授・ローゼン博士(ユング派の分析家)の「まえがき」が本書(講演)の大まかなダイジェストと言えるだろう。以下、一部抜粋。
 
第Ⅰ章「ユングか仏教か」
本書の第Ⅰ章は、河合の個人的な公案-「私は仏教徒なのか、それともユング派なのか?」-である。
公案とは、禅宗の修行僧が老師から与えられる課題のことである。
 
第Ⅱ章「牧牛図と錬金術」で河合は、個性化のプロセスが、東洋と西洋の哲学的・芸術的な一連の絵画に象徴的に、また有意なかたちであらわれていることを解きあかす。
※個性化のプロセスとは、ユング心理学における、個々の人間の未分化な無意識を発達させるプロセスのこと。
※東洋の絵画:牧牛図
※西洋の絵画:賢者の薔薇園
 
第Ⅲ章「「私」とは何か」
本書の第Ⅲ章「「私」とは何か」は、西洋の自我概念を逆転させている。河合の自我ならびに自己観は、日本の文化に根差したものだが、日本の文化においては、西洋的な観点と対立する自我ならびに自己観がみとめられる。
 
第Ⅳ章「心理療法における個人的・非個人的関係」
最後の章「心理療法における個人的・非個人的関係」は、心理療法の考え方を拡大して、沈黙したまま坐っていること、矛盾に耐え、対立するものを包摂することをも心理療法の一部にせんとしている。
 
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西洋発の心理療法を最初に日本に持ち込んだのが著者であるが、文化的な背景の異なる西洋と日本では、当初そのまま西洋の形式で適応することに違和感を感じたようだ。
最初のほうで、西洋人と日本人の自我観の違いを明確にしている。すなわち西洋人のそれは、「他と区別し自立したもの<分断と表現>」であり、日本人のそれは「他との一体感的なつながりを前提としたもの<包含と表現>」としている。
 
これを起点として、求められる心理療法のやり方は、西洋と日本では異なるのであり、ユング派の基本的な理論は適用しつつも、自我観の差異を加味した治療を行う必要があると述べる。そして、この自我観の差異がどうして生じたかの分析として、日本が仏教国であることを述べていく。とりわけ仏教における「縁起」の思想に、大きな影響力があるという分析である。
 
西洋での個性はindivisualという語で表現され、これは「分けられない」という意味であり、上記の「分断」とか「自立」に通じる語である。これに対し、著者は仏教の縁起思想から生じる個性をeachnessという語を使って区別している。様々な縁が絡み合って、個々の人に固有の個性が生み出されているという発想だ。
 
人はあらゆる縁の中で生きているのであり、依存関係の中で生きている。まさに、他との一体感的なつながりの中で生きている。これが日本人の生き方の発想であり、確かに西洋の自立的な個性に基づく発想とは大きく異なる。
 
日本においては、不登校などの相談事例が多いと言われていた。また治療においても、クライアントの治療者に対する依存度は非常に強いともいわれていた。これらは、日本人全体の気質が西洋に比べて「依存が強い」傾向があるということの現象面であるともいえる。
 
このような特徴の日本において、著者は心理療法に、仏教の手法を取り入れたようである。仏教では、意識レベルの下降(意識の深層部へ入っていくこと)を、注意力や観察力を失うことなく気力を充実したままで行う方法を、瞑想、読経、座禅などの修行として開発してきたということに着目した。「自分の意識を表層から深層まで、できる限り可働の状態にしていることによって、クライアントと共に自分の行く方向が見えてくるのです」と著者は述べている。
 
ローゼン博士が前書きに記した、「沈黙したまま坐っていること、矛盾に耐え、対立するものを包摂することをも心理療法の一部にせんとしている。」の実践である。
これらの方法の実践に関し、次の著者の言葉が印象的だ。
・「心理療法によって誰かを「治す」ことはできない」
・「二人(クライアントと治療者)でいる間に、副次的に「治る」という現象が生じることが多い。
 
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縁起観のベースがある文化の中で、依存が弱点とならない生き方、個性(eachness)をしっかりと持てる生き方、互いに認め合える生き方、あるいは一体感からの喪失などにより病んでしまった人に対する周囲の向き合い方などについて、著者の考えは非常に参考となる。