気ままな読書ライフ

気ままな読書日記

「法華経の智慧」第1巻

発刊当初に一度読み、その内容の深さに感動を覚えた記憶があるが、今回もう一度学び直したくなり、第一巻からまた再読を始めた。
 
先般読んだ、河合隼雄先生の「ユング心理学と仏教」の中で、扱われていた仏教が「禅」及び「華厳経」であったので、さらに仏教の最高峰と言われる法華経ももう一度学んでみて、ユング心理学と仏教の関係を新ためて見つめ直してみたいと思ったからだ。
法華経は「生命論」だと言われるが、釈尊が説き、鳩摩羅什が漢語に翻訳した経典をそのまま読んでも、なかなか自力でその真意をつかみ取ることはできない。
 
本書のタイトルには「智慧」とあるが、本書で取り上げられている法華経に関する知恵は、紙面の制約もあり、ほんの一部であると思われる。それにも関わらず、本書を読んで、法華経に込められた知恵の広さと深さは測り知れないと感じ、その知恵は生活や人生に直結する哲学であると感じられる。
 
法華経にも種類があるが、本書の根幹をなしているのは、戸田城聖先生が三種の法華経と言われた、釈尊の説いた法華経、天台の摩訶止観、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経である。
 
釈尊法華経は、全部で二十八品(28の章)あるが、この第一巻では第一の序品と、第二の方便品について語られている(本書は池田名誉会長と発刊当時の創価学会教学部長、副教学部長3名との師弟対談形式である)。
 
感動ポイントは数えきれないが、主なものを記しておきたい。
まず「法華経」が釈尊によってマガダ語で説かれたということ。当時正統のバラモン教では神聖な言語とされていたヴェーダ語でしか説いてはならないとされていたにも関わらず、釈尊は民衆の日常語であるマガダ語で説いた。しかも、仏法をヴェーダ語で語る者を厳罰に処すると言ったという。
 
同様に、鎌倉時代の上流階級が漢文を用いていたが、日蓮大聖人は平仮名混じりでお手紙を書かれている(北条時頼に提出した「立正安国論」は漢文で書かれている)。
もうこの時点で、釈尊日蓮大聖人への尊敬や、教えへの信頼感が生まれてくるのであり、益々法華経を知りたい気持ちが生まれてくる。
 
第一の序品。王舎城霊鷲山に、膨大な数の衆生が参集する。列座大衆。いったいそれはどういうことなのかが明かされていく。その理解がなければ法華経は単なるファンタジーで終わってしまう。
 
集まった膨大な数の衆生釈尊の己心の聴衆であること、色々な聴衆がいたことの意味、女性が含まれていることなど、その全てに深い意味が込められている。映像としてもドラマチックである。序品では、釈尊は無量義処三昧という瞑想に入り、一言も発することなく、神通力で不思議な現象を示す。最後に、弥勒菩薩が問い、文殊師利菩薩が答える。「釈尊はこれから法華経を説くだろう」と。
 
第二は方便品。法華経の前半のエッセンスにいきなり入るが、そこに入る前に、釈尊が法を説いた場所「霊鷲山→虚空会→霊鷲山」の流れ(=二処三会)について対談が進む。これが深かった。全部について理解できていないとしても、甚深の意味が込められているということが分かる。
 
「悟り以前の現実→悟りの世界→悟り以後の現実」という流れがあった。生命論(十界論)でいう、九界→仏界→九界という流れがあった。釈尊の仏法の上求菩提という考え(従因至果の仏法)と日蓮大聖人の仏法の下化衆生という考え(従果向因の仏法)との共通性・関係性についてに触れられ、そこから実際の現実の信仰の在り方について直結してくる。ただ成仏(悟り)を目指す方向だけでなく、成仏の暁には、その仏の生命で、再度悩める民衆の中に入って救済する方向性を重視している。
 
虚空会で登場する宝塔の意味やその会座の光景など、これもまたファンタジックでありながら、そこに深い意味込められている。
 
方便品第二の部分では、方便というもの(法用方便、能通方便、秘妙方便の三種がある)について、「開示悟入(諸仏がこの世に出現した目的は、衆生をして仏知見を開かしめ、示し、悟らせ、その道に入らせるため)」について、「開三顕一(三乗(=声聞界・縁覚界・菩薩界)を開いて一仏乗(仏界)を顕す」について、「諸法実相」についてと、これまた深い対談の中から学ぶことができる。
 
「諸法実相」の部分では、DNAの世界や、フラクタル理論、アインシュタイン相対性理論ハイゼンベルク不確定性原理など、法華経で説かれていることが最新の科学によって証明されてきていることなどに触れられていて科学と仏教という視点でみても非常に興味深い。
 
ただ深いというだけでなく、その深い理解から、現実の生活や人生への知恵に結びつけられているところ、さらに実践の目標が示されているところが本書の凄いところであると思う。「法華経智慧」は全6巻あり、探究の旅はまだまだ序盤だ。