気ままな読書ライフ

気ままな読書日記

「宮本武蔵」 風の巻

 

 ◆風の巻

 

「序の巻」に、「宮本武蔵のあるいた生涯は、煩悩と闘争の生涯」とあった。この「風の巻」では、その闘争の局面と、煩悩による心の葛藤が、特に色濃く描かれていた。何といっても、前巻「火の巻」から持ち越された、京の名門吉岡道場を率いる吉岡清十郎との対決シーンが待ち遠しい。五条大橋に高々と掲げられた公場対決の高札。そして蓮台野での対決。

 

しかし、この対決、あっけなく終わってしまう。武蔵の眼に映った清十郎は、京流第一の兵法者というより、都会的な線の細い公達だった。闘志も伝わってこず、すでに戦う前から決着はついていた。自らの剣を高めるために戦う武蔵は、この戦いを悔いた。決闘で片腕を失うこととなった清十郎に同情すらした。名門であるがゆえに、避けることのできなかった悲劇。


しかし、清十郎は負けて、この敗北が必然であったことを悟る。「考えてみれば、おれは吉岡拳法の子と生まれた以来、なんの修行らしいことをして来たか。おれは武蔵の剣に敗れる前に、一家の戸主として、人間として、すでに敗北の兆しをもっていた。」

 

兄の敗北による名門の汚名を晴らすため、兄よりも剣の実力は高いと言われる弟の伝七郎が、武蔵に決闘状を差し出す。再び蓮華王院での吉岡道場と武蔵の対決。この戦いでは実力は均衡しており、武蔵も相手の上手を感じざるを得なかった。武蔵は戦いに地の利を考慮した。相手より何尺か高い縁の上に立ち、三十三間堂の長い壁を背にして、背後からの敵を封鎖する位置を選んだのだ。武蔵が戦いの中から身に着けてきた経験則だろう。

 

吉川英治の座右の言葉に「我以外皆我師」がある。武蔵もまた、自分以外のあらゆるものを師として、自身の剣を磨いてきた。蓮華王院においても、気と気の闘いの末、精神力で勝った武蔵が、伝七郎を一瞬の一振りで下す。

 

武蔵は、人との偶然の出会いにも恵まれる。清十郎との闘いの後、刀の鑑定、絵、陶器、蒔絵、書で名高い本阿弥光悦とその母親・妙秀と出会い、そこから剣の道に通ずる何物かを感じ取る。さらには光悦に連れられ初めて行く遊郭で出会った吉野太夫との問答からも、また剣上達へのヒントを得る。吉野太夫は、持っていた琵琶をたたき壊し、その内部構造、特に横木のもつ抑揚と弛みの性質について語り、武蔵はこれまでの「ただ冷たく凝結していた自分」というものに気付くのである。

 

一方、後継者兄弟を失った吉岡道場では、門人全員が汚名をそそぐため、武蔵を亡き者とする計画を企てる。どんな手を使ってでも、武蔵を葬ろうという考えである。そんな吉岡門下と武蔵の対決に、何の関係もない男が、しゃしゃり出てきて立会人を申し出る。将来の宿敵、佐々木小次郎である。小説の中で小次郎は、高慢、軽薄、狡猾なキャラクターとして描かれている。一途な武蔵とは全く対照的だ。

 

吉岡も天下の汚名を晴らすために真剣、100名近い門人全員を相手にたった一人で迎え撃つ武蔵もまた命がけの真剣。そんな闘いに、勝手に立会人を宣言し、その双方を適当にけしかけて、ゲームのように傍観しようとする男が佐々木小次郎なのである。腕ばかりたつが、人間としての成長が伴っていない人物。どの時代にもいそうな危険人物と言える。

 

とにもかくにも、本巻の最大のクライマックスである一乗寺下り松の闘い。弓矢あり、鉄砲ありの、一対百の死闘。今回ばかりは武蔵も死を覚悟した。

「いかにしてこの二度と抱きしめることのできない生命との余儀なき別れにも、そのいのちに意義あらしめるか-価値あらしめるか」

「たとえ二十歳を出ずに死んでも、人類の上に悠久な光を持った生命こそ、ほんとうの長命というものであろう」

「生命だけは終る時、捨てる時が最もむずかしい。それによって、その全生涯が定まるし、また泡沫になるか、永久の光芒になるか、生命の長短も決まるからである」

それでも、後に「二刀流多敵の構え」と呼ばれる、独自の水の流れるような、あるいは風のような戦いで、武蔵はこの戦いを制した。

 

本巻の硬のクライマックスが一乗寺の闘いのシーンなら、軟のクライマックスはお通との再会のシーンだろう。死を覚悟した武蔵は、決闘の前に再会したお通に自身の本心を語る。それによって、お通もまた積年の思いが成就するとともに、自らも死を覚悟する。死闘を制した武蔵は、剣への愛とお通への愛の狭間に悩む己心の闘いをも制することができるのか。