「ネガティブケイパビリティ」 答えの出ない事態に耐える力
例えば誰かから悩みの相談を受けた場合に、どのような対応をするか?
例えば自身のこれまでの習性として、内容を聞いて、幾つか思い当たる解決策の中から、もっとも良いと思った策を提案してみるというようなことをする。
果たしてこれがよいのか悪いのか。本書を読んで、そういう疑問にぶち当たる。
本書のタイトルとなっている「ネガティブ・ケイパビリティ」とは、「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」と定義されている。別の表現では、「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」とされている。自分のように、人の話を聞いてすぐに(=性急に)答えを出そうとする姿勢や、すぐに薬を出そうとする精神科医は、明らかに「ネガティブ・ケイパビリティ」が欠落していると思える。
著者は現在精神科医であり作家でもある。精神科医として、この「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉に着目し、それが治療に不可欠であると思えるに至った経緯が本書で明かされている。
著者は、偶然読んだ学術雑誌の論文の中でこのキーワードと出会うが、その言葉のルーツがイギリスの詩人ジョン・キーツにあり、そのキーツの発想を、イギリスの精神科医として影響力のある地位にあったビオンがその分野で発展させたことを知る。ビオンは「ネガティブ・ケイパビリティが保持するのは、形のない、無限の、言葉では言い表しようのない、非存在の存在である。この状態は、記憶も欲望も理解も捨てて、初めて行きつけるものだ」と結論づける。少々理解が難しい。
このことを著者は、次のように解釈している。
若い分析家たちはその学習と理論の応用ばかりかまけて、目の前の患者との生身の対話をおろそかにしがち。患者の言葉で自分を豊かにするのではなく、精神分析学の知識で患者を診、理論をあてはめて患者を理解しようとするが、これは本末転倒である。
確かに、悩みの相談への対応の経験則からみても、相談の相手は解決策の提案を欲しているのではなく、ただ自分の側に立って話を聞いてほしいという場合が多い。それだけで自分から解決策を見つけることができる場合が多い。これまで読んだ、心理療法家の河合先生は、クライアントの話をただひたすら聞くに徹し、本人の治癒力を引き出すというようなことを言われていた。
振り返って考えてみると、悩みの相談に即座に提案したくなるのは、対処しようのない状態に耐えられないとか、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることに不快感を感じそこから逃げ出したいからであると思える。自分がスッキリしたいがゆえに、勝手な思い込みで拙速に提案してしまうのではないか。
著者は、「ネガティブ・ケイパビリティ」とは共感力であるとも言っているが、この共感力に欠けるが故に、宙ぶらりん状態を持ちこたえられないのだと思えた。著者は作家でもあり、キースの詩はもちろんのこと、シェークスピアや日本では紫式部がこのネガティブ・ケイパビリティを備えた代表者であると述べている。著者のペンネームが「帚木蓬生」と、源氏物語の二つの章タイトルの組み合わせであるように、本書の中での源氏物語の解説への力の入れようは、相当であった。
こういう文学に接すればネガティブ・ケイパビリティが鍛えられるのか、あるいはそういう能力があるとそういう文学を楽しめるのか、この部分の記述の本当の理解はまだできていない。
脳が「わかりたがる」という性質の記述や、それに加え「希望を付加したがる」という性質の記述も興味深かった。つまりは脳そのものが、拙速に希望的観測で答えを出しがちであるということだ。
医療におけるプラセボの効果の説明部分も非常に興味深かった。著者の主張は、自己治癒力を引き出すことの大切さであると思う。拙速に答えを与えるように、拙速に薬を処方することよりも、心の働きの力の信頼性を述べているものと思われる。
また、教育の視点にも気づきがあった。確かに我々が受けてきた教育では、表面的な答えを出すことばかりのトレーニングを受けてきている。ネガティブ・ケイパビリティが育たない教育環境にあったということだ。「解決すること、答えを早く出すこと、それだけが能力ではない。解決しなくても、訳が分からなくても、持ちこたえていく。消極的(ネガティブ)に見えても、実際にはこの人生態度には大きなパワーが秘められている」と著者は言う。
現在の世の中が、迅速に分かりやすい答えを出す方を評価する傾向にあり、世の中自体が拙速に進む傾向があるように感じる。かといって複雑な問題に、簡単に答えが見いだせず、臭いものにフタ的に、歪んだ社会が増長されているようにも感じる。そういった中で、この「ネガティブ・ケイパビリティ」は重要な発想ではないかと感じた。