気ままな読書ライフ

気ままな読書日記

「富士日記」 武田百合子

武田泰淳と過ごした富士山麓での十三年間の一瞬一瞬の生を、澄明な眼と無垢の心で克明にとらえ天衣無縫の文体でうつし出す、思索的文学者と天性の芸術社とのめずらしい組み合わせのユニークな日記。昭和52年度田村俊子賞受賞作(第1巻紹介文)

昭和39年7月から始まり、昭和51年9月までの日記が上中下3巻に収められている。作家武田泰淳氏の妻百合子氏の日記だが、時々泰淳氏の文章や、娘花さんの文章も挟み込まれている。

百合子氏の文章は、その生き方そのものと同じように天衣無縫。泰淳氏の文章は、さすが小説家という表現があったりするが日記の中で読むには違和感を感じる。娘の花さんは当時13歳ころと思われるが、両親のセンスを共に受け継ぎながらも自分としての表現をされていてすごいなと感じた(カメラマンになられたらしい)。

他人の「日記」というものに関心がわき、読みだした。富士山麓での生活とはどういうものか。
作家の生活とはどういうものか。
作家夫人というのはどういうものか。
そんな興味で読み始めたが、それらのことを、普段の生活日記の中から肌で感じ取ることができる。

作家夫人の日記といえど、今日あったこと、ご近所さんとのコミュニケーション、買い出しの様子、富士五湖で水泳を楽しむ様子、ペットを含めた家族団らんの様子、朝昼夕のメニュー紹介、時々時事という普通の日記の感じ。であるけれども、やぱり百合子氏独特の個性が表現されている。意外とうんこ話がお好き。

毎日欠かすことなく、朝昼夕の食事の内容が紹介されているが、お金持ちのご様子でたぶん「節約」という感覚は不要で、感性のままに買い出しをされて、感性でその日のメニュー考えて作られているように思う。

しかしこれが、意外と時代を経てもセンスが感じられ、たぶん当時としてはハイカラな食事だったんではないかと思われる。出版当時はレシピ参考本としても読まれたのではないか。

文庫本(古本)で読んだが、各巻400ページ超の量で、上巻だけでだいたいの興味に応えてくれる内容が出てきて、中巻も下巻もその書きくちは変わらない(日記なので)ので、上巻読んでほぼお腹いっぱいになってくる。従って、中巻、下巻はキーワードを見つけてからその周辺を読むという走り読みに変更。

やはり時代が感じられる。中巻では1968年(昭和43年)の日記で「チェコ事件(ソ連チェコに突入)」の報道について書かれていたり、「メキシコオリンピック」の開幕式のことが書かれていたり。

下巻にはいって、昭和44年のアポロ11号月面着陸や、昭和45年大阪万博アポロ11号が持ち帰った月の石が展示されてた~)のこと、雫石での自衛隊機と全日空の衝突事件、三島由紀夫の割腹自殺のことなど、登場する。

なんかこの頃の出来事はすさまじいなと感じながら、自分はその頃何歳だったのかとかを照合しながら読む自分がいる。

ともかく日記の中にも交通事故の話がたくさん出てくる。交通事故で亡くなる人も多い。一人の日記にこれだけの事故の記述があるということは、全国でものすごい数であったことが想像される。光化学スモッグや公害という言葉、エコノミックアニマルという言葉も登場する。「私の城下町」や「フォーリーブス」も登場する。読みながら一昔前へのタイムスリップができる。

下巻最後、夫泰淳氏が病気と闘いながら生を全うするまで、妻としてつきそう日々の様子が描かれて、日記は終わっている。

「日記」文学の面白さ、もう少し広げていってみてもいいかなと思う。

「考える訓練」 伊藤真

audio bookで聴読。
法スクールの伊藤塾の塾長。法律の世界は、特に「考える」ことを基本とする世界であるように思えるので、この著者の「考える訓練」というタイトルは興味深く読んでみた(聴いてみた)。

冒頭の「考えるということは、答えを探すこととは違うよ」という指摘になるほどと思った。

現代の情報時代、ネット社会においては、「考えよ」というとネットなどで答えを探しそれを結論とすることが考えることだと勘違いしていることが多いという。考えることはリサーチとは異なるという指摘だ。

誰しも生きていく中で、未知の問題に遭遇することは必ずある。そうしたときに、その問題解決は、結局のところ誰かがやってくれるわけではなく、自己解決せねばならない。その時に、自分の頭で考えて、自分で新しい答えを作り出す力というのが大事だという。

本来の意味での「考える」力を磨くために、どんなことを日ごろから意識し、どのように行動しておれば鍛えられるかのヒントが述べられている。

いくつかの記憶に残った著者の主張のポイント。

①イラツキ、ザワツキを大事にする。
自分と異なる考えに遭遇すると、イラツキ、ザワツキが生じるものだが、そういう時に避けるのではなく、自分と違う考えに触れてみることが大事。

②理由を3つ考えてみよ。
なぜ、なぜ、なぜ。人を説得するときには、理由が一つよりも三つあるほうが、説得の成功率は高まる。

③論理的と理論的は(言葉は似ているが)違う。
理論的は、何かの理論に当てはめること。
論理的は、自分の頭で考えたことの根拠と結論(AだからB)の関係性が明確であること。

④論理的であることの目的2つ
・他人を説得するため(=他人も理解できる→相手の立場にたつ)
・自分が納得するため

⑤IRAC
問題点(=I:イシュー)を、ルール(=R)に当てはめて(A:アプリケーション)、結論付ける(=C:コンクルージョン)。

⑥考えるのやめてみる
すぐに答えが出そうにないもの。一度寝かせてみることで、時間が解決することもある。

⑦決断する
考えるといっても時間は有限。前に進めるためには決断が必要。

⑧想像力を働かせる観点
・鳥の目/虫の目
・自分の視点/他人の視点/第三者の視点
・時間軸や空間軸を動かしてみる

⑨「思う」と「考える」は違う
「思う」というのは偶然、「考える」というのは目指すゴールがある。

などなど。

「ありがとう」の教科書 武田双雲

「感謝本」をもう一冊。
書道家である武田双雲氏の本書を読んでみた。

心は書に表れるというが、氏の書には、勢いと同時に、心のクリーンさが伝わってくる。本書を読んだからそう思うのかもしれないが、本書を読む前から、氏の書にそういう好印象を抱いていたのは間違いない。

彼は自身のことを「感謝オタク」だという。広く何に対しても「感謝」の心をもち、出会った誰に対しても「感謝」の心をもち、常に「感謝」の気持ちを忘れないようにしている。

この世界に存在するすべての人や物や、できごとや、廻り合わせや、ともかくすべての存在に「感謝」の要素があるのであって、それに気づくこと、見つけ出すことが氏の日々の生活、人生そのものであるようだ。従って、自称「感謝オタク」の表現は間違いない。

氏は、「感謝は技術である」という。

確かに、こんなに自分の周りには「感謝」の要素にあふれているのに、自分はどれだけ「感謝」の心を感じているだろうかと反省したが、それには技術がなかったからだとふと思った。

本書の日常のすべてのタイミングが「感謝トレーニング」のような生き方をすれば、感謝の技術が確実に磨かれてくるに違いない。つまり実践あるのみだ。

しかも、これをやって「幸福」集まってくるのであるからやらない手はない。

以下例によって、電子書籍でマーキングした部分を自身の復習のために記しておきたい。

***

・何もしてもらっていないときに(つまり自分が最初に)感謝する。(★著者:先出し感謝)

・感謝は技術。

・プラスの言葉を使うと脳はプラス思考になり、自動的にプラスの行動をとる。反対にマイナスの言葉を口にすると、脳はマイナス思考になり、マイナスの行動を自動的にとってしまう。(★感謝の言葉の重要性)

・人が一生のうちで何らかの接点をもつ人の数は約3万人と言われる。世界の人口は約70億人であり、出会える人の数は0.000004%の確率。(★出会えたことが奇跡、出会えたことに感謝)

・人間関係とはエネルギの交換。良いエネルギーを発したら良いエネルギーが返ってくる。ネガティブなエネルギーを発したら、ネガティブなエネルギーが返ってくる。

・自分に感謝(★自分を好きになる方法)

・「うわ~、これ美味しい、最高だなぁ」と声を出して言うことで、感動レベルが高まる。

・嫌な人のことを考えるのは、時間とエネルギーのムダです。

・人は、何か結果を残したいときこそ本性が出る。そのときに感謝できるかできないかで、その後の展開も変わる。「思うように結果が出せない」「なにもかもうなくいかない」と思うことが多いなら、まわりに対して感謝の気持ちを忘れている可能性が高い。(★うまくいかないのは、実力がないわけでも、努力が足りないのでもなく、感謝を忘れているだけ)

・「当たり前」は傲慢のはじまり

・相手との違いを「素晴らしい」と思えるか。相手との差異に感謝できれば、人間関係の悩みは消える。

・感謝の4段階(①すべての感謝している人、②感謝に気づいて感謝する人、③感謝に気づいても感謝しない人、④感謝に気づていない人)

・感謝は倍になって返ってくる。しかし「見返り」を求めてはだめ。「見返り」を期待した時点で感謝力は低下する。

GRATITUDE (グラティチュード) 毎日を好転させる感謝の習慣

電子書籍で読んでいる途中に、何か所かマーキングした。列記するが、特に自分なりに大事だなと感じた点は、後から読み返すときのために、「◎」表記しておこうと思う。

感謝の反対は不平不満。感謝にあふれている人と、不平不満ばかり言っている人と、どちらが好感度かは一目瞭然であり、自分自身が感謝の気持ちであふれているときと、不満の心が渦巻いているときとでは、どちらが心地よいかという問いにも即答できる。

であるのに日常、感謝ができず、不平ばかり懐いてしまいがちのはなぜなのだろう?

欠乏意識をなくせというのが著者のアドバイス。満たされているということを理解し、自覚できる視点を持たねばならない。ヘレンケラーの素晴らしい視点に学び、実践していくのみだ。努力が必要と著者はいう。

そして、その努力により、感謝が自動モードになれば、すべてにハッピーな人生となるなるのだろう。

***以下抜粋***

ドーパミンの分泌をうながす様々な要因の中で、とりわけ重要なのは感謝の心を持つこと。

・身の回りのものに感謝すればするほど、ドーパミンセロトニンがたくさん分泌される。

◎身の回りのものに感謝する週間を身につけると、脳の中でそれをつかさどる神経回路が強くなる。やがて「自動モード」となる。

・ロサダ比:感謝と不平の比率

・たとえ今日、多くを学ばなかったとしても、少しは学んだのだ(ブッダ

・豊かさ意識を持つ人は
 ①毎日、感謝の言葉を述べる
 ②好きなことに意識を向ける
 ③感謝の心を持つ人と一緒に過ごす
 ④独自の強みを生かす
 ⑤明確なビジョンを持つ
 ⑥計画をたてて行動する。
 ⑦周囲の人に好影響を与える

引き寄せの法則:「似たものは似たものを引き寄せる」という法則

◎私にはたくさんのものが与えられていますから、自分に与えられていないものに思いをめぐらせている時間はありません(ヘレン・ケラー

◎不平不満をいうことは欠乏意識のなせるわざ

・不平を言う癖が直ると、本当にしたいことに意識を向けることができるから、能力を発揮して目標を達成し、豊かな人生を築くきっかけになる。

・たいていの場合、人々は過去のことを後悔し、未来のことを不安に感じているのが実情

・自分に思いやりをもつ。絶えず自分に優しい言葉をかけ、自分にポジティブに話しかけよう。

・3つのステップを行動に移せ。
①自分の本当のニーズを見極め、それを満たすために全力を尽くす。
②今後もずっと頑張れるように、時には自分に何らかのご褒美を与える。
③自分の間違いを許し、後悔を避け、今この瞬間を最大限に生きる。

◎人間の脳は、現実と想像を区別できないから、あなたの信じているものを受け入れる。

・思いやりを持つこと素晴らしいが、相手を本当に理解して、絆を深めるためには、共感力を育てる必要がある。

◎感謝することは生まれつきの能力ではななく、努力して身につけるべき資質である。ちょうど努力して体を鍛えるのと同じことだ。

・人間を突き動かしている最大の心の要因は、自分を大切に扱ってほしいという強烈な願望である。ウィリアム・ジェームズ(米心理学者)

和辻哲郎「風土」 第二章の勉強会

 

コロナ禍の状況下になってから、知人(先輩)とzoomによる読書会を月イチのペースでやっているが、今日は「風土」の第二回目の勉強会の日だった。朝8:30から約90分ほど、読後の意見交換を行った。

 

今回は、「第二章 三つの類型」ということで、内容は3つの節に分かれている。

すなわち「モンスーン」「沙漠」「牧場」の各節である。

 

これは昭和3年の執筆であるが、当時著者の和辻氏が、世界の各地を実際に訪れながら、その地の風土について、人間学的観察をしたことをまとめたものと思われる。どちらかというと地理学とか民俗学といった趣がある。第一章の基礎理論の部分は、表現が難解でとっつきにくかったが、この二章はどちあらかというと紀行文的な雰囲気もあり、非常に興味深く読める。

 

3つのエリアは、風土的に特徴のあるエリアの代表例を示したものであるように思われるが、気候的・地理的要素から述べれば、概略次のように述べられていると思う。

 

モンスーンとは夏に南西から、冬に北東から吹く季節風のことだが、特に夏の太平洋から大陸に向かって吹く、大量の湿気を含んだ風の特徴について強調しており、一言でいえば「その不快感は耐え難い」ということを述べている。

 

また、その影響のもう一つは、この地に台風、大雨、または洪水、旱魃などの自然災害が多いということも述べている。そういう意味で、このエリアでの湿気は、耐えがたい不快感をもたらすほか、人間が対抗できないような災害をもたらすものととらえている。

 

そのようなところから、このエリアで生活する人々は、「受容的」であり「忍従的」であると著者は結論づける。

 

(以下引用)***

”モンスーンは人間に対抗を断念させる。かくて自然は人間の能動的な気力を、意志の緊張を委縮し、弛緩させるのである。インドの人間の感情の横溢は意志の統括力を伴わない。”

”受容的・忍従的な人間の構造は、インドの人間において、歴史的感覚の欠如、感情の横溢、意力の弛緩として規定せられた。我々は歴史的・社会的にインドの文化型として現れているのを見るのである。”

”歴史的・社会的に現れた想像力と思惟とがいかにインド的人間の特殊構造を示すかを見た。非歴史的・非統制的なる感情の横溢としての受容的・忍従的態度がそれである。”

***

 

モンスーンという風土の代表として、日本人も含みつつ、インドの人々の特徴を考察し、戦闘よりも智慧の力を重視する性質、推理的ではなく直感による情的思惟(大乗仏教などに続く)、無抵抗主義的な闘争(つまりは非暴力・智慧の戦い)などが、この風土から生まれた特徴と述べていた。

 

次に「沙漠」について

最初に、われわれ日本人が「砂漠」を英訳するときに使用するdesertという単語についての説明があった。このdesertという言葉は本来「生気なく、空虚であり、荒れている」といった言葉で、例えば岩石の荒れ地をrock desertといったり、礫の海をgravel desertと言ったりするという説明があった。そういう荒れ地的な風土を取り扱っている。

 

著者が選んだ地は、アラビア半島南端のアデン(イエメン共和国)や、シナイ半島のシリア・メソポタミア砂漠等であり、rock desertとsand desertの地域であった。この沙漠をイメージを著者は「死」のイメージでとらえている。

 

先のモンスーンでの台風や大雨、洪水などは、人や生き物にとって死をもたらす存在であるかもしれないが、そうでありつつも恵みをもたらす存在でもあるとして、受け入れる姿勢があるのであるが、ここでの沙漠はそれ自体が死であり、生への恵みをもたらすことのない存在ととらえている。すなわち、ここでの人々の生活は、死と直面していると言える。

 

それであるがゆえに、沙漠の中に存在する生との接点=オアシス的なものの獲得に、人々は命がけであり、その争奪のための部族間での戦闘が始まるという。従ってある部族という共同体に属するという行為は自身の生死を分けることに直結する。つまり、この風土に生きる人々は、その共同体への服従と、対立する部族との闘争という二つの側面をもつという。この風土における人々の性質は「服従的・戦闘的」の二重性格であるという。

 

ここで生まれた宗教、フィフィ教(回教)、またユダヤ教もその神ヤーヴェやエホバは元をたどればこの地シナイ山の神、軍神であったというから、いずれの宗教も絶対服従的・戦闘的な性質を含んでいると思われる。

 

ナイル川という水の恵みをもつエジプトにおいては、それらの性質を持ちつつも、静観的・感情的で、知力の発達や美観の精錬とかが特性的であると、少し趣が異なる点を述べていた。

 

最後に「牧場」について

著者は「一般にヨーロッパの人間の文化がいかに牧場的であるかを考察する」との述べている。著者がいうこの地の特徴は、「湿潤と乾燥の総合である」という。すなわち、モンスーンという風土の特徴と沙漠という風土の特徴の総合であると言っている。夏に乾燥、冬に湿潤という特徴があり、これによって雑草は生えないという。日本の夏とは全く異なる風土なようである。また、地中海には海でありながら生物が住まず、ここで漁業などは栄えることがなく、地中海はどちらかというと交通路的な役割を果たしているという。

 

そういう風な特徴から、この地で暮らす人々は放牧やオリーブ栽培、ブドウ栽培などで、自然と融合しあいながら暮らしている様子を紹介している。その姿は、自然に忍従する必要も対抗する必要もなく、自然と融和しているイメージだ。そして、この地に住む人々は自然の中に法則を見つけ、自然科学の発達などはこうしてもたらされたという。

 

またギリシャを起源とするポリスでは、人工的・技術的な仕事が中心となり、それによって地中海を支配するに至った。同時に観照的な学問が(アリストテレスの観ること知ることなど)が発達したことを述べている。

 

その後地中海の交通路を利用して遠征してきたハンニバルに対し、ローマ軍が勝利を収めたことを契機に、ローマは発展し周辺を自らのポリスに取り込んでいき、周囲の統一を進めた。それがカトリック教会がヨーロッパを支配するきっかけとなった。

 

ヨーロッパの「湿潤と乾燥の総合である」という特徴かから、古代ギリシャでは静的でユークリッド幾何学的、彫刻的、儀礼的な文化が生まれたといい、近代西欧からは、動的、微積分学的、音楽的、意志的な文化が生まれと述べている。

 

こうして、3つの代表的な風土とそこで暮らす人々の性質、そしてまたそこから生まれた宗教、文化などには異なる特徴がみられるということを著者は観察の結論として述べているのだと思う。

 

この章の最後の節に、次のような記述があった。

”風土の限定が国民をしてそれぞれに異なった方面に長所を持たしめたとすれば、ちょうどその点にいおいて我々はまた己の短所を自覚せしめられ、互いに相学び得るに至るのである。またかくすることによって我々は風土的限定を超えて己れを育てていくこともできるであろう。”

 

これが著者の結論的な記述ではないかと理解したものである。

和辻哲郎の「風土」

この前友人とLINEメッセージを交換してたなかで、高校時代の社会の選択科目にあった「倫理社会」の話題に至った。それで思い出したのだが、その「倫理社会」の先生が、”和辻哲郎の「風土」を読む”という課題を我々に与えたことを思い出した。

 

どういう経緯とか目的で、この課題を与えられたのか、先生の意図は全く覚えていない。だけども、なんか難しくて、まったく興味がわかなかったことだけは間違いない。

 

 

ところが、何十年もたって「これはいったいどんな本だったのか」ということに興味がわいてしまった。それで再チャレしてみることにした。コロナ禍で始めた知人とのオンライン読書会(共通の課題本を決めて、月一でzoomで読後の意見交換をするという単純なもの)の課題本に設定してみた。

 

第一章。やはりなんか難解である。だけども第一回目の意見交換会にむけて、消化不良のまま読み進めた。先日その第一回めの意見交換会を行ったが、先方(知人)は、すでに全部読み通されており、自分はこの第一章だけ読んで臨んだ。そして知人は言った。

「第一章は、あまり読まなくてもよいのでは・・・」

 

そんな気もしないではなかったが、第一章の題は「風土の基礎理論」となっているだけに、これを理解しないで先に進んでもよくないのだろうと思い込み、固執してしまった。

 

著者は、この風土に関する考えを、ハイデッガーの「存在と時間」から発展させたようだ。同署を読んだことがないので、本当のところはよくわからないが、ハイデッガーは「人の存在の構造を時間性として把握した」のに対し、和辻氏は「空間性として把握」することを試みたようである。

 

本書で「風土」の定義は、「土地の気候、気象、地質、地味、地形、景観などの総称」とされており、これが「時間性」に対する「空間性」を意味しているのだと思う。

 

「人間の、すなわち個人的・社会的なる二重性格をもつ人間の、自己了解の運動は、同時に歴史的である。従って歴史と離れた風土もなければ、風土と離れた歴史もない。が、これらのことは、人間存在の根本的構造からのみ明らかに生まれ得るのである。」

 

ここでいう「個人的・社会的なる二重性格をもつ人間」というのは、人間というのは個人としてみるだけでなく、人と人との結合=共同態として、すなわち社会としてみようということのようだ。

 

例えば個人が「寒い」と感じるだけでなく、同じところで暮らす人々が同様にその「寒い」とい感覚を共有することができる。そこで感じる「寒さ」というのは、自然科学的な実験結果として明らかになった「寒さ」というよりも、その土地の地味とか地形とか景観などが影響して、すなわち「風土」が影響して、その土地の人々に共通に感じられる「寒さ」である。このことを、本書では「風土における自己了解」と言っているようだ。

 

そのことの証明として、著者は「道具の発見」ということを挙げている。

ある地域の(社会的な側面としての)人間の、「寒さ」に対する自己了解は、家屋の様式に現れたり、着物の形に現れたり、火鉢や炭焼きなど道具の形として現れるという。暑さについても同様である。

 

このような風土の影響による人間の自己了解は、さらには、文芸、美術、宗教、風習、あらゆる人間生活の表現のうちに見出すことができると述べている。

 

人間の存在構造を時間性のみでなく、空間性も加味して把握しようとすることで、「歴史と離れた風土もなければ、風土と離れた歴史もない。」という言葉が生まれたのだと思う。

 

そういう風にとらえることが、「風土の基礎理論」で述べられていることであると理解したが、この内容を踏まえて、次の章では、風土の「三つの類型」について述べられていく。

 

一、モンスーン

二、砂漠

三、牧場

 

世界のうちのこの代表的な三つの風土から生まれる人間の自己了解とはいかなるものか、あるいはそういうところから生まれた文化、美術、宗教などはどのようなものかということが述べられているようである。

 

「新聞大学」外山滋比古

 

少し前までは人生50年と言われ、還暦(60年)をクリアすると非常に喜ばしいこととされ、さらに70歳では「古稀稀なり」とそんなに長生きする人は稀だと言われていた。ところが寿命が延びてくると、逆に老いた生活が長い為、健康に老いるということが必要な時代となってきた。

 

著者は、「頭脳が働かなくなると、体もおかしくなってくる」として、まずは頭脳の老化にストップをかけようということで、そういう世代をメインターゲットとして本書を書かれたようだ。

 

高齢化社会において、中高年は「生涯学習」と言われるように、最期まで自己学習をしていこうではないかと訴えられる。そのうえで、最新の情報が日々更新される「新聞」を最強のツールとして活用することで、コストもかけずに、知的自己開発を進めていけると提案される。この新聞を活用した生涯学習のことを「新聞大学」と呼ばれているのである。

 

もちろん、新聞の読み方の話なので、万人に役立つ話ではある。それにしても、外山さんの本は、文章が精錬されているので、内容もさながら、文章を読むこと自体にも快感を覚える。

 

本書は、「見出し」とか「社説」とか「コラム」とか「書評」とか、新聞の各パーツについて取り上げられている他、「新聞は社会の木鐸である」とか、「新聞は複数読んだ方がよい」とか、その役割とか活用の方法とかについても述べられている。それぞれが28個のエッセイとなっている。エッセイなので軽い感じですぐ読めるが、大切なエキスを絞り込んで美味しく仕上げた濃縮ジュースのようなイメージだ。

 

「新聞」を生涯学習のテキストとして採用するメリットをいくつか挙げられていた。
・まず、新鮮な情報の掲載されたテキストが毎日手元に届く。
・使い捨てなので、「切り貼り」など活用が自在
・文章のプロが書いている など

 

学習の姿勢としては、情報を鵜呑みにするな(→疑って読め、考えながら読め)ということで、ただの知識メタボにならないようにと警告している。反面、知らないことが書かれたりする場合には、敬遠せずに挑むことで、新たな知識の習得や視野の拡大につながるとして、ベテラン記者や専門記者が書く「社説」や「経済面」での学習などを進めている。著者が、よく言われる「アルファ読み」から「ベータ読み」への移行である。

 

本選びに際して、署名付きの書評より署名なしの書評のほうが、出版社や著者とのしがらみのないよい書評であることが多いという話や、第一面の「サンヤツ広告」(そもそもあの一面の広告を「サンヤツ広告ということや、そこには必ず書籍の広告(8社分)が掲載されているということを初めて知った)を著者はしっかりと目を通されるということなどは、参考になった。

 

新聞や本などの上に表された文章は、記者や著者の発する言葉が「凍結」されたものであって、それを読む際に解凍してどのように味付けするかは読者だというような考えが示されていたが、この考え方は面白かった。新聞大学の学生として、どう味付けしていくかということだ。これは本の読者も同様だ。

 

学習の習慣化について、日記が習慣化すると、空白の頁の存在が気持ち悪くなるので、何かを書きたくなるというエピソードを通し、新聞大学の学習についても、それくらいの習慣化を目指そうよと提案されていた。何事にも通用する発想である。

とても面白く読めました。