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和辻哲郎「風土」 第二章の勉強会

 

コロナ禍の状況下になってから、知人(先輩)とzoomによる読書会を月イチのペースでやっているが、今日は「風土」の第二回目の勉強会の日だった。朝8:30から約90分ほど、読後の意見交換を行った。

 

今回は、「第二章 三つの類型」ということで、内容は3つの節に分かれている。

すなわち「モンスーン」「沙漠」「牧場」の各節である。

 

これは昭和3年の執筆であるが、当時著者の和辻氏が、世界の各地を実際に訪れながら、その地の風土について、人間学的観察をしたことをまとめたものと思われる。どちらかというと地理学とか民俗学といった趣がある。第一章の基礎理論の部分は、表現が難解でとっつきにくかったが、この二章はどちあらかというと紀行文的な雰囲気もあり、非常に興味深く読める。

 

3つのエリアは、風土的に特徴のあるエリアの代表例を示したものであるように思われるが、気候的・地理的要素から述べれば、概略次のように述べられていると思う。

 

モンスーンとは夏に南西から、冬に北東から吹く季節風のことだが、特に夏の太平洋から大陸に向かって吹く、大量の湿気を含んだ風の特徴について強調しており、一言でいえば「その不快感は耐え難い」ということを述べている。

 

また、その影響のもう一つは、この地に台風、大雨、または洪水、旱魃などの自然災害が多いということも述べている。そういう意味で、このエリアでの湿気は、耐えがたい不快感をもたらすほか、人間が対抗できないような災害をもたらすものととらえている。

 

そのようなところから、このエリアで生活する人々は、「受容的」であり「忍従的」であると著者は結論づける。

 

(以下引用)***

”モンスーンは人間に対抗を断念させる。かくて自然は人間の能動的な気力を、意志の緊張を委縮し、弛緩させるのである。インドの人間の感情の横溢は意志の統括力を伴わない。”

”受容的・忍従的な人間の構造は、インドの人間において、歴史的感覚の欠如、感情の横溢、意力の弛緩として規定せられた。我々は歴史的・社会的にインドの文化型として現れているのを見るのである。”

”歴史的・社会的に現れた想像力と思惟とがいかにインド的人間の特殊構造を示すかを見た。非歴史的・非統制的なる感情の横溢としての受容的・忍従的態度がそれである。”

***

 

モンスーンという風土の代表として、日本人も含みつつ、インドの人々の特徴を考察し、戦闘よりも智慧の力を重視する性質、推理的ではなく直感による情的思惟(大乗仏教などに続く)、無抵抗主義的な闘争(つまりは非暴力・智慧の戦い)などが、この風土から生まれた特徴と述べていた。

 

次に「沙漠」について

最初に、われわれ日本人が「砂漠」を英訳するときに使用するdesertという単語についての説明があった。このdesertという言葉は本来「生気なく、空虚であり、荒れている」といった言葉で、例えば岩石の荒れ地をrock desertといったり、礫の海をgravel desertと言ったりするという説明があった。そういう荒れ地的な風土を取り扱っている。

 

著者が選んだ地は、アラビア半島南端のアデン(イエメン共和国)や、シナイ半島のシリア・メソポタミア砂漠等であり、rock desertとsand desertの地域であった。この沙漠をイメージを著者は「死」のイメージでとらえている。

 

先のモンスーンでの台風や大雨、洪水などは、人や生き物にとって死をもたらす存在であるかもしれないが、そうでありつつも恵みをもたらす存在でもあるとして、受け入れる姿勢があるのであるが、ここでの沙漠はそれ自体が死であり、生への恵みをもたらすことのない存在ととらえている。すなわち、ここでの人々の生活は、死と直面していると言える。

 

それであるがゆえに、沙漠の中に存在する生との接点=オアシス的なものの獲得に、人々は命がけであり、その争奪のための部族間での戦闘が始まるという。従ってある部族という共同体に属するという行為は自身の生死を分けることに直結する。つまり、この風土に生きる人々は、その共同体への服従と、対立する部族との闘争という二つの側面をもつという。この風土における人々の性質は「服従的・戦闘的」の二重性格であるという。

 

ここで生まれた宗教、フィフィ教(回教)、またユダヤ教もその神ヤーヴェやエホバは元をたどればこの地シナイ山の神、軍神であったというから、いずれの宗教も絶対服従的・戦闘的な性質を含んでいると思われる。

 

ナイル川という水の恵みをもつエジプトにおいては、それらの性質を持ちつつも、静観的・感情的で、知力の発達や美観の精錬とかが特性的であると、少し趣が異なる点を述べていた。

 

最後に「牧場」について

著者は「一般にヨーロッパの人間の文化がいかに牧場的であるかを考察する」との述べている。著者がいうこの地の特徴は、「湿潤と乾燥の総合である」という。すなわち、モンスーンという風土の特徴と沙漠という風土の特徴の総合であると言っている。夏に乾燥、冬に湿潤という特徴があり、これによって雑草は生えないという。日本の夏とは全く異なる風土なようである。また、地中海には海でありながら生物が住まず、ここで漁業などは栄えることがなく、地中海はどちらかというと交通路的な役割を果たしているという。

 

そういう風な特徴から、この地で暮らす人々は放牧やオリーブ栽培、ブドウ栽培などで、自然と融合しあいながら暮らしている様子を紹介している。その姿は、自然に忍従する必要も対抗する必要もなく、自然と融和しているイメージだ。そして、この地に住む人々は自然の中に法則を見つけ、自然科学の発達などはこうしてもたらされたという。

 

またギリシャを起源とするポリスでは、人工的・技術的な仕事が中心となり、それによって地中海を支配するに至った。同時に観照的な学問が(アリストテレスの観ること知ることなど)が発達したことを述べている。

 

その後地中海の交通路を利用して遠征してきたハンニバルに対し、ローマ軍が勝利を収めたことを契機に、ローマは発展し周辺を自らのポリスに取り込んでいき、周囲の統一を進めた。それがカトリック教会がヨーロッパを支配するきっかけとなった。

 

ヨーロッパの「湿潤と乾燥の総合である」という特徴かから、古代ギリシャでは静的でユークリッド幾何学的、彫刻的、儀礼的な文化が生まれたといい、近代西欧からは、動的、微積分学的、音楽的、意志的な文化が生まれと述べている。

 

こうして、3つの代表的な風土とそこで暮らす人々の性質、そしてまたそこから生まれた宗教、文化などには異なる特徴がみられるということを著者は観察の結論として述べているのだと思う。

 

この章の最後の節に、次のような記述があった。

”風土の限定が国民をしてそれぞれに異なった方面に長所を持たしめたとすれば、ちょうどその点にいおいて我々はまた己の短所を自覚せしめられ、互いに相学び得るに至るのである。またかくすることによって我々は風土的限定を超えて己れを育てていくこともできるであろう。”

 

これが著者の結論的な記述ではないかと理解したものである。

和辻哲郎の「風土」

この前友人とLINEメッセージを交換してたなかで、高校時代の社会の選択科目にあった「倫理社会」の話題に至った。それで思い出したのだが、その「倫理社会」の先生が、”和辻哲郎の「風土」を読む”という課題を我々に与えたことを思い出した。

 

どういう経緯とか目的で、この課題を与えられたのか、先生の意図は全く覚えていない。だけども、なんか難しくて、まったく興味がわかなかったことだけは間違いない。

 

 

ところが、何十年もたって「これはいったいどんな本だったのか」ということに興味がわいてしまった。それで再チャレしてみることにした。コロナ禍で始めた知人とのオンライン読書会(共通の課題本を決めて、月一でzoomで読後の意見交換をするという単純なもの)の課題本に設定してみた。

 

第一章。やはりなんか難解である。だけども第一回目の意見交換会にむけて、消化不良のまま読み進めた。先日その第一回めの意見交換会を行ったが、先方(知人)は、すでに全部読み通されており、自分はこの第一章だけ読んで臨んだ。そして知人は言った。

「第一章は、あまり読まなくてもよいのでは・・・」

 

そんな気もしないではなかったが、第一章の題は「風土の基礎理論」となっているだけに、これを理解しないで先に進んでもよくないのだろうと思い込み、固執してしまった。

 

著者は、この風土に関する考えを、ハイデッガーの「存在と時間」から発展させたようだ。同署を読んだことがないので、本当のところはよくわからないが、ハイデッガーは「人の存在の構造を時間性として把握した」のに対し、和辻氏は「空間性として把握」することを試みたようである。

 

本書で「風土」の定義は、「土地の気候、気象、地質、地味、地形、景観などの総称」とされており、これが「時間性」に対する「空間性」を意味しているのだと思う。

 

「人間の、すなわち個人的・社会的なる二重性格をもつ人間の、自己了解の運動は、同時に歴史的である。従って歴史と離れた風土もなければ、風土と離れた歴史もない。が、これらのことは、人間存在の根本的構造からのみ明らかに生まれ得るのである。」

 

ここでいう「個人的・社会的なる二重性格をもつ人間」というのは、人間というのは個人としてみるだけでなく、人と人との結合=共同態として、すなわち社会としてみようということのようだ。

 

例えば個人が「寒い」と感じるだけでなく、同じところで暮らす人々が同様にその「寒い」とい感覚を共有することができる。そこで感じる「寒さ」というのは、自然科学的な実験結果として明らかになった「寒さ」というよりも、その土地の地味とか地形とか景観などが影響して、すなわち「風土」が影響して、その土地の人々に共通に感じられる「寒さ」である。このことを、本書では「風土における自己了解」と言っているようだ。

 

そのことの証明として、著者は「道具の発見」ということを挙げている。

ある地域の(社会的な側面としての)人間の、「寒さ」に対する自己了解は、家屋の様式に現れたり、着物の形に現れたり、火鉢や炭焼きなど道具の形として現れるという。暑さについても同様である。

 

このような風土の影響による人間の自己了解は、さらには、文芸、美術、宗教、風習、あらゆる人間生活の表現のうちに見出すことができると述べている。

 

人間の存在構造を時間性のみでなく、空間性も加味して把握しようとすることで、「歴史と離れた風土もなければ、風土と離れた歴史もない。」という言葉が生まれたのだと思う。

 

そういう風にとらえることが、「風土の基礎理論」で述べられていることであると理解したが、この内容を踏まえて、次の章では、風土の「三つの類型」について述べられていく。

 

一、モンスーン

二、砂漠

三、牧場

 

世界のうちのこの代表的な三つの風土から生まれる人間の自己了解とはいかなるものか、あるいはそういうところから生まれた文化、美術、宗教などはどのようなものかということが述べられているようである。

 

「新聞大学」外山滋比古

 

少し前までは人生50年と言われ、還暦(60年)をクリアすると非常に喜ばしいこととされ、さらに70歳では「古稀稀なり」とそんなに長生きする人は稀だと言われていた。ところが寿命が延びてくると、逆に老いた生活が長い為、健康に老いるということが必要な時代となってきた。

 

著者は、「頭脳が働かなくなると、体もおかしくなってくる」として、まずは頭脳の老化にストップをかけようということで、そういう世代をメインターゲットとして本書を書かれたようだ。

 

高齢化社会において、中高年は「生涯学習」と言われるように、最期まで自己学習をしていこうではないかと訴えられる。そのうえで、最新の情報が日々更新される「新聞」を最強のツールとして活用することで、コストもかけずに、知的自己開発を進めていけると提案される。この新聞を活用した生涯学習のことを「新聞大学」と呼ばれているのである。

 

もちろん、新聞の読み方の話なので、万人に役立つ話ではある。それにしても、外山さんの本は、文章が精錬されているので、内容もさながら、文章を読むこと自体にも快感を覚える。

 

本書は、「見出し」とか「社説」とか「コラム」とか「書評」とか、新聞の各パーツについて取り上げられている他、「新聞は社会の木鐸である」とか、「新聞は複数読んだ方がよい」とか、その役割とか活用の方法とかについても述べられている。それぞれが28個のエッセイとなっている。エッセイなので軽い感じですぐ読めるが、大切なエキスを絞り込んで美味しく仕上げた濃縮ジュースのようなイメージだ。

 

「新聞」を生涯学習のテキストとして採用するメリットをいくつか挙げられていた。
・まず、新鮮な情報の掲載されたテキストが毎日手元に届く。
・使い捨てなので、「切り貼り」など活用が自在
・文章のプロが書いている など

 

学習の姿勢としては、情報を鵜呑みにするな(→疑って読め、考えながら読め)ということで、ただの知識メタボにならないようにと警告している。反面、知らないことが書かれたりする場合には、敬遠せずに挑むことで、新たな知識の習得や視野の拡大につながるとして、ベテラン記者や専門記者が書く「社説」や「経済面」での学習などを進めている。著者が、よく言われる「アルファ読み」から「ベータ読み」への移行である。

 

本選びに際して、署名付きの書評より署名なしの書評のほうが、出版社や著者とのしがらみのないよい書評であることが多いという話や、第一面の「サンヤツ広告」(そもそもあの一面の広告を「サンヤツ広告ということや、そこには必ず書籍の広告(8社分)が掲載されているということを初めて知った)を著者はしっかりと目を通されるということなどは、参考になった。

 

新聞や本などの上に表された文章は、記者や著者の発する言葉が「凍結」されたものであって、それを読む際に解凍してどのように味付けするかは読者だというような考えが示されていたが、この考え方は面白かった。新聞大学の学生として、どう味付けしていくかということだ。これは本の読者も同様だ。

 

学習の習慣化について、日記が習慣化すると、空白の頁の存在が気持ち悪くなるので、何かを書きたくなるというエピソードを通し、新聞大学の学習についても、それくらいの習慣化を目指そうよと提案されていた。何事にも通用する発想である。

とても面白く読めました。

「思考力」外山滋比古

 

思考力

思考力

Amazon

冒頭、ベーコンの「知識は力なり」という言葉と、デカルトの「我思う故に我あり」という言葉が対比的に紹介される。

 

これまでの物理的なパワーに対し、多くの知識を身に着けることこそが「力」であると主張したのがベーコンの革命的な発想であった。そのベーコンに対し、考えること、すなわち思考することは、それに勝る「力」であるという趣旨で、デカルトの言葉を紹介する。

 

昨今の知識偏重的な教育についても、苦言を呈している。この知識偏重型の教育を受けてきた世代にとっては、白か黒か、善か悪かといった単純な形でしか答えを見出せないというようなことを指摘する。すなわち既存の判断基準を知識として覚え込んで、それをもとに判断するので、応用力がないというのだ。自分で考えないというわけだ。

 

この「自分の頭で考えよ」というのが本書においての根幹となる著者の主張であると思う。

 

知識はいくらでも借りてこれる。いくらでも蓄積できる。しかし自分で考えたものではない。結局、使いこなせない知識に埋もれた「知識メタボ」となるというのは、著者があちこちでよく言われていることである。それよりも自分の頭で考えよ。答えの無いところからスタートせよというのが著者の主張である。そういう意味では、失敗をする経験も大事な収穫であるという。失敗を避けて、石橋をたたきながら、規制の答えの中から人生を選択していくより、失敗も経験として、自分で考え、自分で選択し、成功も失敗も自身のものとしていこうというのが著者のメッセージであると思う。

 

いろいろと著者の体験談が紹介されているが、そのほとんどすべてが、著者の反骨的な人生の紹介であった。周囲から反対されたり、非難されたとしても、自分が「よし」と考えれば、その方向を選択する。周囲の視線から見れば、「偏屈」とか「へそ曲がり」とかに、映ったことだろう。

 

しかし、著者にとっては、この「自己選択」の生き方、自分で考えた生き方こそが大事なのだ。

「失敗談」外山滋比古

 

失敗談

失敗談

Amazon

著者が自身の子どもの頃を回想したり、社会人となり編集者として活動されていた時代の話や、中学校の新任教師となったときのことなど、自らの失敗談を面白くかつ赤裸々に紹介されている。どちらかというと頭脳明晰というイメージの著者であるので、そういう著者が語られる失敗談というのは興味深い。

 

中学生の頃の寄宿舎生活時代に、仲間と盗んだ芋で焼き芋をやって、窃盗・放火未遂の罪で、先生からこっぴどく叱られ退学を考えてみたり、新任教師時代に集合場所に遅刻したことが原因で、即刻辞表を書いたりと、なかなか潔いというのか(笑)、外山さんってそんなところがあるのかと思わせるように記述もたくさん登場した。

 

自虐的な話なども交えつつ、失敗こそが成長につながるのだということを訴えていかれる。自らの体験から得られた教訓のお話であるので説得力もある。以下、ちょこっと抜粋。

 

受験
「勝ったからと言って天下を取ったように喜ぶのは幼稚であるし、(中略)落ちたら落ちたで、それなりの誇りをもってもいいのである」

 

競争
「少しひねくれた考え方かもしれないが、力をつけ、競争に勝つには、その前に敗れる目に遭うのが得策である」

 

就職
「世の中思うようにいかないものだという悟りと、失敗したっておたおたすることはないという度胸ができたら思わぬ収穫である」

 

セレンデピティ
「目指すものをとらえることには失敗して、思いがけないものを見つけるのに成功する」

 

転ばぬ先
「転ばぬ先の杖などあるわけがない。転ばぬ先に転んでみなくてはいけないのである」

 

著者の好きな引用
「経験は最良の教師である。ただし、月謝がべらぼうに高い。(トマス・カーライル)」

 

不幸
「不幸は思いがけない土産をもってくることがあるらしい。人生の妙である」

 

シャープ・ペンシル発明の早川徳次さんのエピソードが紹介されていたが、これはこれでまた別に読んで見るのも面白いと思う。

「閉鎖病棟」

 

 

帚木氏は、先日「ネガティブ・ケイパビリティ(答えの出ない事態に耐える力)」という著書を読んで初めて知り、精神科医で小説も書かれているんだ~という関心が、本書を読んでみようという動機となった。

 

冒頭から、まったく関連性がないと思える話が3話展開される。

産婦人科を堕胎目的で訪れた14歳の少女・島崎由紀にまつわるあるシーンの描写。続いて、戦争で負傷しながらも帰還した父親と、不貞な(というのは後に判明するが)母親を持つ・梶木秀丸の少年期のあるシーンの描写。そして昭八さん(苗字あったかな?思い出せない)の少年期の、よい思い出と忘れたいようなつらい記憶のシーンを描写している。それぞれが、短編小説のような展開だが、これが後々の「閉鎖病棟」で展開される出来事のための伏線となっている。

 

閉鎖病棟」とは、入所者の外出が制限されていたり、入所者との面会が制限されているような精神病棟のことを意味している。この表現そのものが適切かどうかということもありそうだが、若干古い小説でもあり、そこは触れないでおきたい。

 

実は先の3つの話の主人公は、この病院へ通院する患者であったり、入所している患者であったりする。そして、その病院に入所する様々な患者の日常や、そこで従事する主治医や看護師などの日常、つまり病院での日常的な様子が小説に展開されている。そしてこの小説全体は、チュウさんという人物を中心に描かれている。チュウさんは、この病院の入所患者であり、多くの入所者からも、医療スタッフからも人気のある人物である。

 

著者は精神科医であるだけに、著者自身の日常が、この小説の素材となっていることは明らかだ。もちろん、登場人物は架空の人物であろうが、その人物像については、著者の経験則からストーリー構築されているはずだ。それぞれの人物の家族構成とか、過去の出来事とか、そういうことが小説でありながら、リアリティを帯びている。

 

島崎由紀には、想像を超えるショッキングな背景があった。このキャラクター設定をした著者について様々に考えてしまう。現実にもこのような悲劇の患者は多く存在するのだろうか。そういう患者のモデルを小説の素材として書ける著者は冷淡ではないのか。いやいや著者はそういう患者の心も十分理解したうえで、小説を通じて読者になんらかのメッセージを伝えようとしているのか。

 

この小説の中に、読者を腹立たしい気持ちにさせる何人かの人物がいる。最も問題ありの人物像として描かれている重宗(やくざで、暴力的で、身勝手で、非情な行動をとった人物)でさえも、及ばないもっと醜いと感じる人物像が描かれている。

 

島崎由紀の母親やその再婚相手の義父(これが最悪)、秀丸さんの浮気性の母親、聾唖の昭八さんを小ばかにする義兄、そしてチュウさんの退院を醜く拒否する妹夫妻。

 

いったい心の病気とは何なのか。
思いがけない人生の流れの中で、殺人者や放火者になってしまい、それが理由で「精神的に病むもの」となってしまうものがいる。一方、明らかに純粋な心を自分の身勝手のゆえに踏みにじろうとする「醜い心」を持つ者もいる。

 

閉鎖病棟に隔離されてきた登場人物の中に、純粋な心が存在していたり、閉鎖病棟の入居者を外から見下す人たちの心の中に、醜さを感じたり。そういうことを考えさせてくれる小説であり、おそらくこれは、ごく一般的な日常の中にあるんだろうと思う。

「ネガティブケイパビリティ」 答えの出ない事態に耐える力

 

 

例えば誰かから悩みの相談を受けた場合に、どのような対応をするか?

例えば自身のこれまでの習性として、内容を聞いて、幾つか思い当たる解決策の中から、もっとも良いと思った策を提案してみるというようなことをする。

果たしてこれがよいのか悪いのか。本書を読んで、そういう疑問にぶち当たる。

 

本書のタイトルとなっている「ネガティブ・ケイパビリティ」とは、「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」と定義されている。別の表現では、「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」とされている。自分のように、人の話を聞いてすぐに(=性急に)答えを出そうとする姿勢や、すぐに薬を出そうとする精神科医は、明らかに「ネガティブ・ケイパビリティ」が欠落していると思える。

 

著者は現在精神科医であり作家でもある。精神科医として、この「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉に着目し、それが治療に不可欠であると思えるに至った経緯が本書で明かされている。

 

著者は、偶然読んだ学術雑誌の論文の中でこのキーワードと出会うが、その言葉のルーツがイギリスの詩人ジョン・キーツにあり、そのキーツの発想を、イギリスの精神科医として影響力のある地位にあったビオンがその分野で発展させたことを知る。ビオンは「ネガティブ・ケイパビリティが保持するのは、形のない、無限の、言葉では言い表しようのない、非存在の存在である。この状態は、記憶も欲望も理解も捨てて、初めて行きつけるものだ」と結論づける。少々理解が難しい。

 

このことを著者は、次のように解釈している。
若い分析家たちはその学習と理論の応用ばかりかまけて、目の前の患者との生身の対話をおろそかにしがち。患者の言葉で自分を豊かにするのではなく、精神分析学の知識で患者を診、理論をあてはめて患者を理解しようとするが、これは本末転倒である。

 

確かに、悩みの相談への対応の経験則からみても、相談の相手は解決策の提案を欲しているのではなく、ただ自分の側に立って話を聞いてほしいという場合が多い。それだけで自分から解決策を見つけることができる場合が多い。これまで読んだ、心理療法家の河合先生は、クライアントの話をただひたすら聞くに徹し、本人の治癒力を引き出すというようなことを言われていた。

 

振り返って考えてみると、悩みの相談に即座に提案したくなるのは、対処しようのない状態に耐えられないとか、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることに不快感を感じそこから逃げ出したいからであると思える。自分がスッキリしたいがゆえに、勝手な思い込みで拙速に提案してしまうのではないか。

 

著者は、「ネガティブ・ケイパビリティ」とは共感力であるとも言っているが、この共感力に欠けるが故に、宙ぶらりん状態を持ちこたえられないのだと思えた。著者は作家でもあり、キースの詩はもちろんのこと、シェークスピアや日本では紫式部がこのネガティブ・ケイパビリティを備えた代表者であると述べている。著者のペンネームが「帚木蓬生」と、源氏物語の二つの章タイトルの組み合わせであるように、本書の中での源氏物語の解説への力の入れようは、相当であった。

 

こういう文学に接すればネガティブ・ケイパビリティが鍛えられるのか、あるいはそういう能力があるとそういう文学を楽しめるのか、この部分の記述の本当の理解はまだできていない。

 

脳が「わかりたがる」という性質の記述や、それに加え「希望を付加したがる」という性質の記述も興味深かった。つまりは脳そのものが、拙速に希望的観測で答えを出しがちであるということだ。

 

医療におけるプラセボの効果の説明部分も非常に興味深かった。著者の主張は、自己治癒力を引き出すことの大切さであると思う。拙速に答えを与えるように、拙速に薬を処方することよりも、心の働きの力の信頼性を述べているものと思われる。

 

また、教育の視点にも気づきがあった。確かに我々が受けてきた教育では、表面的な答えを出すことばかりのトレーニングを受けてきている。ネガティブ・ケイパビリティが育たない教育環境にあったということだ。「解決すること、答えを早く出すこと、それだけが能力ではない。解決しなくても、訳が分からなくても、持ちこたえていく。消極的(ネガティブ)に見えても、実際にはこの人生態度には大きなパワーが秘められている」と著者は言う。

 

現在の世の中が、迅速に分かりやすい答えを出す方を評価する傾向にあり、世の中自体が拙速に進む傾向があるように感じる。かといって複雑な問題に、簡単に答えが見いだせず、臭いものにフタ的に、歪んだ社会が増長されているようにも感じる。そういった中で、この「ネガティブ・ケイパビリティ」は重要な発想ではないかと感じた。