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感動!「ベートーヴェンの生涯」

 

ベートーヴェンの生涯 (岩波文庫)

ベートーヴェンの生涯 (岩波文庫)

 

 

これは、久々に感動の良書であった。しばらく書棚に積んだままだったが、もっとさっさと着手しておくべきだった。

 

ベートーヴェンの生涯」、「ハイリゲンシュタットの遺書」、「ベートーヴェンの手紙」、「ベートーヴェンの思想断片」と続き、付録もある。その付録の中には、著者ロマン・ロランが行った「ベートーヴェンへの感謝」と題する講演記録と、本書の翻訳者片山敏彦氏による「ベートーヴェンの『手記』より」が収められている。

 

表紙にこうある。「少年時代からベートーヴェンの音楽を生活の友とし、その生き方を自らの生の戦いの中で支えとしてきたロマン・ロラン(1866-1944)によるベートヴェン賛歌。二十世紀の初頭にあって、来るべき大戦の予感の中で自らの理想精神が抑圧されているのを感じていた世代とってもまた、彼の音楽は解放の言葉であった。」

 

ベートーヴェンの生涯」は、その「序」とする文において、25年前の1902年に書いたものであると著者は述べている。つまり1902年にすでに書かれていたベートーヴェンの生涯」に、序文を加え1927年(すなわち、ベートーヴェン没後100年目)の3月に再度発表されたものということだ。

 ※ベートーヴェンの生涯は、1770年12月16日~1827年3月26日。

 

その序文の中で、ロランは、「今、ベートーヴェン百年祭にして、生きること死ぬことを私たちに教えてくれた彼、簾道と誠実との「師」ベートーヴェンーあの偉大な一世代の人々のために「伴侶」であってくれたベートーヴェンをほめる私の言葉に添えて、あの一世代への追憶を記念する」と記されている。

 

ここにいう「あの偉大な一世代」とは、表書きの言葉から、二十世紀当初の大戦、すなわち第一次世界大戦に巻き込まれた世代を指しており、その彼らもまたベートヴェンの楽曲を伴侶とし、自らの抑圧された精神を開放することができたのだろうと著者は追憶を記している。

 

ベートーヴェンの生涯が波乱万丈の人生であったことは世に知られていることである。本書の中でもその生涯について一通り語られている。

 

貧困な家庭に生まれ、暴力伴う父親の過度な音楽教育の幼少期を過ごし、17歳にして最愛の母親を失い、酒飲みの父親に代わって一家(2人の弟たち)を養い、22歳で生まれ故郷のボンを離れ、ウィーンにて音楽活動を行うも、若干26歳にして腸を患い、また耳鳴り、難聴から30歳の頃にはすでにほとんど聴力を失ってしまうことになる。

 

しかし、その後もその状況のままで、作曲活動に取り組み、途中テレーゼと熱烈な恋愛をし、そして身分差等による理不尽な失恋に失意のどん底に落ち、それをも音楽の糧として作曲活動を続け、1824年5月、54歳のときにあの世紀の「第九交響曲(合唱付)」を生み出し、1827年3月26日に57歳の生涯を閉じたのである。

 

ロマン・ロランによるベートーヴェン賛歌。この激しいベートーヴェンの生涯に対し、ロランは語る。以下、主だった文章を抜粋した。

 

「第九交響曲は気狂いじみた感激を巻き起こした。多数の聴衆が泣き出した。ベートーヴェンは演奏会の後で、感動のあまり気絶した。」

 

「依然として彼は貧しくて病身で孤独であった。とはいえ彼は今や勝利者であった。彼は人々の凡庸さを征服した勝利者であった。自己自身の運命と悲哀とに打ち克った勝利者であった。」

 

「かくて彼はその全生涯の目標であったところのもの、すなわち歓喜をついにつかんだ。」

 

「不幸な貧しい病身な孤独な一人の人間、まるで悩みそのもののような人間、世の中から歓喜を拒まれた人間が自ら歓喜を作り出すーそれを世界に贈り物とするために。彼は自分の不幸を用いて歓喜を鍛え出す。そのことを彼は次の誇らしい言葉によって表現したが、この言葉の中には彼の生涯が煮つめられており、またこれは、雄々しい彼の魂全体にとっての金言でもあった。-「悩みを突き抜けて歓喜に到れ!」

 

「ハイリゲンシュタットの遺書」は、甥のカルルと弟のヨハンに宛てた遺書の意味を込めた書簡である。その中でも、次の「ベートーヴェンの手紙」の章で紹介されている親友への手紙の中でも、悪化していく自身の病状への憂い、運命との格闘、希望、そして自身の音楽における使命について語るベートーヴェンの思いを素肌で感じることができる。

 

「たびたびこんな目に遭った私はほとんど全く希望を喪った。自らの生命を絶つまでにはほんの少しのところであった。-私を引き留めたものはただ「芸術」である。自分が栄を自覚している仕事をし遂げないでこの世を見捨ててはならないように想われたのだ。」

 

「僕の芸術は貧しい人々の運命を改善するために捧げられねばならない」

 

「ブルタークの本が僕を諦念へ導いてくれた。できることなら僕は運命を対手に戦い勝ちたい。」

 

「僕は運命の喉元を絞めつけてやりたい。どんなことがあっても運命に打ち負かされきりになってはやらない。-おお、生命を千倍生きることは全くすばらしい!」

 

圧巻は、ベートーヴェンへの感謝」と題するロランの百年祭での講演。これは文章全体が感動であり、ここへそれを書きつくすことはできない。ロランは、ベートーヴェンのすべての楽曲にも精通していて、もしその部分にも詳しい読者であればその感動はさらに大きなものとなるだろうと思う。

 

自分は全くの素人であるので、ベートーヴェンのすべての曲に貫かれているものについて語るロランの言葉により、ベートーヴェンの偉大さをようやく感じることができたレベルで、今後そのことを念頭に、もう一度ベートーヴェンの楽曲を聴いてみたいなと今思っているところだ。

 

ベートーヴェンのすべての曲に貫かれているもの。ロランはこう語っていた。

「すなわちそれは二つの要素の間の闘い、広大な二元である。この事は、ベートーヴェンの最初の作から最後の作に至るまで表れている。(中略)しかしながら、ベートーヴェンの気魄のー灼熱せる、勝手気ままでしかも逼迫せるこの嵐のごとき気魄の統一そのものの中に、一つの魂の二つの様態、ただ一つのものである二つの魂があるのである。それらは結合し、また反撥し、論争し格闘し、互いに身体を絡ましあっているが、それは戦いのためともいえるし、また抱擁のためともいえる。不均衡な二つの力であり、また心の中で不同に発言する二人の敵手がそこにいる。一方は命令し抑圧する。他方はもがき呻く。けれでもこの二人の敵対者らは、征服者と被征服者とは、ともに同様に高貴である。そして、これこそが重要な点である。

 

(中略)ベートーヴェンのこの戦いとは、魂と運命との間のそれである。(中略)彼の書いたの中にこの事はたくさんある。

 

ベートーヴェンは、自身の人生におけるすさまじい運命と、それに打ち克とうとする強烈な魂と、その壮絶な格闘を楽曲の中に込めているということだろうか。しかし、そうであるならば、それができるのは、この人生でこの格闘を貫いてきたベートーヴェンただ一人だと思われる。

 

彼は聞こえなくなった耳で、神の声(音)を聞き取れるようになった。彼は、音楽は啓示を越えるものだとい言っていた。彼は、そうして生み出した楽曲を、人々に伝えることを自分の使命と考えた。貧しい人、悩める人に歓喜を与えるための曲を作ることを使命として生き抜いた。自身の境遇の苦悩から、人々の歓喜を生み出した。

 

先に「第五交響曲(運命)」を生み、そして最後に「第九交響曲」の歓喜の歌を生み出した彼自身の人生そのものがそれであるなとも思われた。

 

そういう人生を貫いたベートーヴェンの生きざまに改めて感動し、他の作曲家と一線を画した超人的な芸術家ベートーヴェンを再発見した感覚である。

 

河合先生の「カウンセリングを語る」(上・下)

 

カウンセリングを語る(上) (講談社+α文庫)

カウンセリングを語る(上) (講談社+α文庫)

 

 

本書は、四天王寺人生相談所が開催していた年一度のカウンセリング研修講座に、著者が講師として招かれ、実施した講演の前半のほうの記録をもとに編集されたものである。その研修の受講者は、学校の先生などの教育者であったり、学校カウンセラーもいたかもしれないし、これからカウンセラーになろうとしていた人かもしれない。
 
著者は「別にカウンセラーになろうとする人でなくとも、教育、福祉、医療などの領域で、何らかの意味で対人援助の仕事をしている人々にとって、本書はどこかお役に立つところがある、と思っている」と述べている。
 
上下巻あるうちのまずは上巻から。
章のタイトルを見れば、講演に対する興味が膨らむ。

第一章 家庭・学校で問題が生じたとき
第二章 心を聴く
第三章 カウンセラーという人間
第四章 「治る」とき
第五章 限界があることを前提に
第六章 役に立つ反面の危険性
 
本書の内容のすべてと言っても過言ではない内容が、第三章に記されている。読者の期待に対するズバリの回答である。カウンセラーの三つの条件である。たった三つの条件を満たすことができれば、特に勉強などしなくても誰でも一流のカウンセラーになれるという。
 
①カウンセラーは、クライエント(カウンセリングを受けにきた人というような意味)に、まったく無条件に積極的に関心を払っていく(無条件な積極的関心、積極的尊重)。
 
②共感するということ(クライエントの悩み、苦しみ、悲しみ、あるいは喜びをともに感じていく)
 
③自己一致(カウンセラーがその時に言っていることと、感じていること・思っていることがぴったり一致していること)
 
河合先生は、プロの商売道具のエッセンスをいとも簡単に開示されたが、これは簡単なようで、実は非常に難しく、素人には到底できない、トレーニングをつんでもなかなかクリアできない条件だからである。
 
本書の内容のすべてはこの三条件の実施に関する話であって、そのニュアンスをとらえるには、全体の講義を聞く(読む)しかない。ただし、読んだからといって、すぐに実践できるものでもない。だけども、これを知っているか、知らないかで、問題をかかえる人と正しく向き合えるか、全く誤った対応をしてしまうかという大きな差を生じさせてしまう。
 
現代社会はとくに、自分の周りを見回しても、このようなコミュニケーションを求められる場面が非常に多いように感じる。カウンセリングとまでいかなくとも、人の話をきちんと聞かねばならない場面は多い。その時に、この意識をもって接するのと、そうでないのとでは人間関係に全く正反対の結果をもたらすように思える。話の聞き手として、コミュニケータとして、誤った対応をしないために、この知識は非常に有効であると思う。
 
もちろん深刻な内容での本来のカウンセリングを要する場面では、プロのカウンセラーによるカウンセリングで対応せねばならない。本書の中でも、著者が「カウンセリングは命がけである」という趣旨のことを述べているように、中途半端なカウンセリングは危険である。
 
そして、もう一つ重要な事実が本書で明かされている。
それは、カウンセラーがクライエントを治療するのではないということである。カウンセリングにより、クライエントが自らの力で治癒していくのだそうである。つまりクライエントの自己治癒力をアシストするのが、上記の三条件の遂行ということだ。
身近にメンタルの病と闘っている人がいるならば、少なくとも三条件を誤らないことが、本人の自己治癒を阻害しないためにも重要だなと感じた。
 
この三条件の裏返しは、①無関心、②共感できていない、共感しようとしない ③自己一致していない(言ってること、やってることと、心で思ってることが一致していない)だ。・・・確かに、これはよくなさそうだ。河合先生の本は、いろいろと考えさせてくださる。
 

 

カウンセリングを語る(下) (講談社+α文庫)

カウンセリングを語る(下) (講談社+α文庫)

 

 

続いて下巻は、四天王寺人生相談所のカウンセリング研修講座の後半の講演記録をもとに編集されたものであるが、講演の内容は回数を重ねるごとにより深い部分ところに触れることが求められてきたと著者は述べている。下巻の目次は次の通りだ。
 
第一章 カウンセリングの多様な視点
第二章 日本的カウンセリング
第三章 人生の実際問題との対し方
第四章 宗教との接点
第五章 「たましい」との対話
 
全体を通して本書は、カウンセラーやカウンセラーになりたいと考えている人向けに話された講演であるので、それ以外の立場で読むときには、自分に必要なエキスを意識しながら読む必要がある。
 
第一章では、カウンセリングの流派の分類について述べられていた。クライエントの表面に現れた部分を診るのか内面を診るのか(外的現実を診るか、内的世界を診るか)で4事象に分類されていた。
・行動療法(外的現実を診て、外的な治療を行う)
・ロジャーズ派(外的現実を診て、内的な治療を行う)
フロイト派(内的世界を診て、外的な治療を行う)
ユング派(内的世界を診て、内的な治療を行う)
外的な治療は、クライアントに積極的に働きかけていくのに対し、内的な治療はクライアント自身の行動を待つというスタンスである。河合先生はユング派であり、夢の分析など内的世界を診て、クライエントが自分の力で治していくのを待つという方法である。河合先生は、上下巻を通じ、「カウンセラーがクライエントを治しているのではない。クライエントが自分の力で治っていくのを見守っている」と言われている。
 
第二章では、もともとカウンセリングという手法は、欧米から取り入れたものだが、日本でカウンセリングを行うには、日本文化とか日本人というものを考慮したカウンセリングが必要だと述べている。
 
日本は母性社会であり、「なんでもやってあげよう」という考えが強いが、欧米はそうではない。日本人は自我の確立が遅いが、欧米人は早い年代で自我が確立されている。従って、日本においてはいわゆる厳しさ(父性)の要素がカウンセリングに必要であるという。例えば、その例として、時間厳守、料金体系をきちんと決める、カウンセリングする場所を決めて行うなどである。
 
カウンセリングの内容では、ただクライエントを受け入れるだけでなく、「あなたがどう生きるのかと厳しく問う」というような姿勢らしいが、これができるようになるには、カウンセラーも経験が必要であり、カウンセラーにも指導者の存在が必要であるということだ。
 
第三章では、より困難なカウンセリングのケースが多くなってきており、カウンセラーはただ技法の習得のみに終始するのではなく、もっと「地力」を身につけないといけないとの指摘であった。カウンセリングの本以外のもっと多岐にわたる本を読むべきであり(子供の童話が非常に良い教材であるとも!)、その他スポーツでも登山でも様々な体験をすることが必要だと述べていた。
 
第四章では、カウンセリングと宗教の関係は深いと言う。子供が心の病になって、その治療のために金を惜しまない両親の事例が紹介されていた。子供のためにはどれだけお金を出しても構わないから、治してくださいという親。しかし、子どもは全く治らない。ある子供は、様々な環境が整えられている家庭において、「どうしてうちには宗教がないのか」と両親に訴えたという。河合先生の分析は、子どもは「金では買えないもの」を望んでいるんだと。
 
親は、一生懸命、金での解決に努力し、最も肝心な子どもの心の理解ということに気が付かない。そして治らない。親は完璧なつもりでも、何もしていないのと同じ。
 
宗教に入り、人々に尽くすが、自分の子どもに尽くせない親の事例も紹介されていた。
しかし本当に、親子ともに一緒に乗り越えられたとき、「人の気持ちがよくわかるようになった」と言われる人が多いとの著者の言葉も印象的であった。
 
最後の章では、エレンベルガーという人の分析・・・心の病は「創造的な病」であるという言葉が紹介されていた。フロイトも、ユングもともに心の病に苦しみ、それを克服し、心理学としての体系をなすという創造的な仕事をした。夏目漱石が極度の神経衰弱で苦しんだ後に、すぐれた文学を世に送り出したことも記述されていた。
この病に打ち勝った時、創造的な世界が展開されるという事実がある。
 
カウンセラーの立場でない自分は、第一章、第二章は、参考レベル、第三章以下に関心をもって読んだ。

 

「不定愁訴」・・・自律神経を整える

 

読むだけで自律神経が整う100のコツ 決定版

読むだけで自律神経が整う100のコツ 決定版

 

 

最近、健康本を意識的に読んでいる。やはり、「健康」はすべてのことがらの大前提だ。何事も「体が資本」であるので、現状の不安要素を解消すると同時に、今後良い状態をキープするための情報収集もまた目的である。

 

本書で使われている「不定愁訴」という言葉。恥ずかしながら、自分はこの言葉との出会いは今回初めてであったように思う。この言葉の意味は正直知らなかった。

この言葉は「臨床用語」として随分昔から使われているようであるが、自分の日常の中ではこれまであまり聞いたことがない。しかし、その内容は「頭が重い、イライラする、疲労感が取れない、よく眠れない、なんとなく体調が悪い、だるい」というような体の症状を示す言葉であり、非常に身近な感覚である。医者に診てもらっても特に悪いところはないようなんだが、こういう症状があるというのが、この「不定愁訴」だ。

 

今年は1月20日が「大寒」で、「立春」は2月4日のようである。「春」という言葉を聞くだけでちょっと嬉しくなるが、まだまだ寒い日が続いている。そして、寒さのせいか、循環器系に気になる日が続いていた。恐らく不整脈が出ているためだろう。

 

腰が痛いなら腰痛体操など自己努力による対処も可能であるが、「心臓の動き」については自律神経によるものであり、自分の意思でその動きをコントロールすることはできないのが不安なところである。であるので、今回は「自律神経」に着目してみようと思った。もちろん、コロナウィルス対策への警戒も必要である。

 

Amazon Unlimitedというサービスは、サービス対象の本であれば何冊でも購入することなく無料で読める、というありがたいサービスである。その対象本には小説の類はあまり含められていないが、健康本に関してはけっこう対象となっているものが多い。上記の本もその対象である。

 

本書では、「自律神経」について、このように説明されていた。

「交感神経と副交感神経が互いにバランスよく働き、心臓を動かし、体温調整し、生命維持に直接関係する神経であり、意志でコントロールできないもの。」

 

そして、その交感神経と副交感神経のバランスは、次のような事象で崩してしまい、その結果「不定愁訴」を招いてしまうと書かれていた。すなわち・・・

・強いストレス

・不規則な生活リズム

・ホルモンの分泌失調

・生活環境の変化

 

交感神経は「起きているときの神経、緊張しているときの神経」と言われるのに対し、副交感神経は「寝ているときの神経、リラックスしているときの神経」と言われる。

 

例えば起きているとき、「頭が重い」とか、「なんとなくだるい」とか、「めまいがする」などは、交感神経が鈍っている状態にあるということだ。確かに、不規則な生活リズムのときには、ホルモンの分泌失調などでこういうことが起こるような気がする。

 

一方起きているときに、「イライラする」「動悸がする」「血圧が高い」などは、交感神経が活発すぎることによるものだそうだ。これは連動しているなぁ・・・。イライラすると不整脈が起こったり、血圧が上がるというのは経験的に理解できる。ストレスが要因の場合が多いのかなと感じる。

 

逆に寝ているときに、副交感神経が活発すぎると、「便秘」になったり、「胃もたれ」がしたりするが、副交感神経が弱まっていると「不眠症」となったり、「慢性疲労」につながったりするということだ。

 

自分の場合は、不整脈や高血圧などは「交感神経が活発すぎる」ということになる。つまりストレスが大きいのか、自分のストレス耐性が低いとか、そういうことが要因だ。例えば、「寒すぎる」というストレスに対し、緊張し→交感神経が過敏になり→不整脈という流れが考えられる。そうすると、衣類や室温で温かくする、体が温まるものを食べる、運動をして体を温めるなどが対策として浮かんでくる。

 

そうすると、まず2ステップ考えられるかな。

まず、自身の自律神経の機能を正常に保つこと。交感神経・副交感神経の切り替えを適切にし、それぞれの神経が活発すぎず弱すぎず適切に働くようにすること。自律神経失調状態にならないようにすることが基本だ。

 

次に、もし交感神経や副交感神経が適切に機能していないとき(活発すぎたり、弱すぎたりのとき)に、食事、体操、マッサージなどの対処療法的なアクションをうまく取り入れれば改善効果があるということだ。

 

本書によれば、副交感神経が交感神経に切り替わるのは、午前5時くらいとされていたので、そうであるとすれば「5時起き」というのが、一番よい起床タイミングとなる。これを規則正しく行えるとよいように思える。

 

また、風呂のアドバイス、「夜はぬるめ」「朝は熱め」も納得できた。

夜の就寝前に、熱い風呂で交感神経を活発にしてはいけないが、朝の起床時に熱めのシャワーや入浴で交感神経の活発化を促進するのはよさそうだ。スタンフォード式快眠術で、就寝前の入浴を実践するにも、「熱すぎ」はダメということになる。

 

本書には、100のコツとして、食事(ロイヤルゼリーがよいとか、ビタミンB12がよいのでそれを含む食べ物がこれだとか)、どのツボが冷え性に効くだとか、細かな豆知識が書かれている。

 

理由もなく「こういう体操がよい」的なことも書かれていて、疑い深い自分には「ほんとかよ」と思うような記述も多かったが、そういうところは対処療法的な部分であって、まずは仕組みに則って生活しようという意識が大事かなと感じたものである。

腰痛対策を始める

 

カラー版 9割の腰痛は自分で治せる (中経の文庫)

カラー版 9割の腰痛は自分で治せる (中経の文庫)

 

 

最近、腰にピクリと「ギックリ腰」の前兆のような感覚が走るため、整骨院に通いだしたが、ブックオフで本書を見つけた。整骨院通いは、基本的に定期的なコストがかかるのに対し、本書のタイトルは「自分で治せる」となっているではないか。
 
整骨院の治療に行くと、必ず「次いつ来られますか」とアポと取られる。もちろん治療に間をあけると効果が半減するという理由も確かなのであろうが、どれくらい通えば治るという確証もないため、「エンドレスになるのではないか」というような不安も正直起こる。
 
ならば、こちらも並行で読んで試してみるか。首尾よく自力で治れば、整骨院さんのほうも自然フェードアウトできる。そう思いながら読みだした。さすがに、整骨院の待合室で、本書を読むようなデリカシーのないことはやらないが(笑)。
 
本書は、著者が青年期に事故にあい、腰を強打されて、時に寝たきりになるくらいの腰痛に悩まされ、病院や治療院通いをした経験をもち、それでも結局治らず、自力で腰痛の原因を研究され、「腰痛緩衝法(筋肉を軟らかくする方法)」を開発されたとのこと。自分が苦しんだ経験を人にために役立てようという考えがすばらしい。
 
そのメソッドの名前に「緩衝法」とあるように、腰痛のほとんどの原因は、筋肉の緊張にあるのでそれを緩めることが解決法なのだそうだ。ここで、「軟らかい」という字のほかに「柔らかい」という字があるが、本書では「軟らかい」のほうが大事。
 
例えば整体や鍼で一時的にやわらげるのは「柔らかくする」ことらしいが、常に筋肉をやわらかく維持するときには、「軟らかくする」という文字で表すらしい。「柔」より「軟」が大事ということだ。
 
これを読んで、今のところ整骨院の治療は根本治療でなく、対処療法的なものなのかなと感じた(その事実については、現時点では不明です)。
 
また、本書の「9割」というのが気になるが、残りの1割の人は、薬害で筋肉が壊れ簡単に治らない人と、この話を聞いても自分で実行しない人が併せてそれくらいいるということらしい。真面目にここに示されたことに取り組めば「部分で治せる」という。本当ならありがたい。
 
本書では、腰痛の原因は「筋肉の緊張」とし、それが起こるケースを3つ挙げている。
①筋肉を動かすことによる緊張(=スポーツなどの筋肉痛イメージ)
②筋肉を動かさないために起こる緊張(=長時間同じ姿勢など)
③骨格の歪による筋肉の緊張(=骨格が歪んでいるために余計な筋肉を使い続ける)
主に②③が自分も自覚症状のある不健康なやつだ。
 
著者は不自然な姿勢もよくないという。左右対称がベストであると。確かに、デスクで本を読んでいる姿を振り替えてみても、まっすぐの姿勢で読んでいない。しかも足を組んでみたり、片足を組んでみたりと、こういうのがよくないそうだ。
 
本書には、②と③の人を対象に、筋肉を軟らかくする方法と、骨盤(腸骨)のズレを治す方法について具体的に示されている。実際に読みながら一通りやってみたが、その刺激から、「なかなかよいではないか」と感じている。思い込みが激しいのかもしれないが、「矯正されてるなぁ」という感じが実感できる(笑)。
 
先日、整骨院で「自宅でもできるトレーニングはないか}と聞いてみたところ、教えてくれたものが、本書の腸骨矯正のための方法のうちの「準備の動作」であった。つまり「準備」であり、「本動作」ではなかったのだ。
 
やってみてよい刺激があるうえ、実施前と実施後自分のズレが治っているかどうかを確かめる方法についても書かれているので検証できるというのがよい。
 
しばらく実行してみようと思う。ブックオフ100円の投資で改善できればこんなにありがたいことはない。

 

 

定年考(その2)

 朝、ブログ記事を書いたあと、この「定年前後のやってはいけない」を少し再読してみた。as-it-is.hatenablog.com

 

午前中の記事には、この本の帯の表側に書かれていた3項目の箇条書きについて、自身を振り返ってみたが、この帯の裏側にも4項目の箇条書きがある。

「定年前」の常識は、「定年後」の非常識として、

①仕事・・・自分を”安売り”していい

②お金・・・老後資金は「貯める」より「稼ぐ」

③健康・・・時間とお金をかけすぎない

④人づきあい・・・義理と礼を欠くのは高齢者の特権

 

①は就職の際に、プライド高く、現役時代の肩書きなどを振りかざして、自分を高く売ろうとしても全くダメだよという忠告、②は老後は何もしないで年金生活を送るために、老後の資金をためておくよりも、老後も可能な限り働いて稼ぐのがよいという指摘、③はジム通いやサプリメントなど、健康にわざわざお金をかけなくても、ただで健康をキープする手段はいくらでもあるというアドバイス、④はいちいち形式的な儀礼を大切にするより、自分の気持ちを優先しろというこれもアドバイスだろうか。

 

それぞれに、自分としてもほぼ同意できる。

 

それと、本書は「やってはいけない」について書かれた本であるが、最後のほうに、「人生後半にやってほしいこと」という節が一節設けられている。

 〇健康管理を心がける

 〇社会との接点を持つ

 〇家族との接点を持つ

 〇服装

 〇身だしなみ

 〇クルマ

 〇読書

 〇お酒

 〇規則正しい生活

 〇生活管理

 〇家事

 〇ゴロ寝、テレビ

 〇散歩

 〇貯金

 〇焦らない、恐れない、あきらめない

 

どれもうなづける項目だと思う。自分の場合は「読書」は特に手放したくない項目だ。著者もは、「もうビジネス書は読まなくていい。歴史物でも文学でも、興味のおもむくまま読みたいものを自由に読もう。」という。年間100冊読んでも、これから読める本の数は知れている。ならば、これまでに読み残している良書を集中的に読んでいきたいものだ。

 

「健康」については、最重要課題。項目の一つ「散歩」=ウォーキングもその手段の一つであるが、それ以外でも積極的に取り組みたい。

 

定年考

「何のためにブログを書いているのか」を考えることがよくある。

このブログは、現在の住居への引っ越しを機に初めた。動機は「転居記念」の開設と、「転居後の足跡記録」という、いわば「ダイアリー的なものだろう。そこに日々の読書の記録なども絡ませて、自己満足の「読書日記」である。

 

積極的に交流するパワーが乏しいにも関わらず、時々記事を読んでくれている方がいて、見ず知らずの人間のこんな記事を読んでくれたのだと、ありがたい気持ちになる。

 

さて、ついに人生初の「定年」というやつを迎えることになるが、こういう個人的なイベントは、他人にはあまり関係のないことで、本当に自分だけの日記に記しておけばよいことだが、「転居後の足跡」と位置付けたためとりあえず記しておきたい。

 

「定年」という言葉が、自身に身近なものなってきた2年前、書店の平積みで「定年前後のやってはいけない」という本が目に留まった。

 

定年前後の「やってはいけない」 (青春新書インテリジェンス)

定年前後の「やってはいけない」 (青春新書インテリジェンス)

 

 

書店でも、やたら「定年」をテーマとした本が多くなったなと感じる。当時、この本の帯の記述に興味がわいて買ったのを記憶している。帯の表紙側には、次の3つの箇条書きがあった。

①「✖ 雇用延長で働く」

②「✖ 資格・勉強に時間とお金を使う」

③「✖ 過去の人脈で仕事を探す」

 

本書を読んだからかどうか、自己選択の結果は、①と③は実行、②は資格を取るために少々時間とお金を使った。

 

これまで人事の仕事にも少々携わってきたが、定年を迎えたほとんどの方は「雇用延長」を選択する。そこには、安定、これまでの人間関係の継続、手続きの簡易さ、などの理由が浮かぶ。これに対し、「さらに安定」の場所があるか、「人間関係を継続したくない」という考えがあると、この選択を行わない場合があると思う。自分は後者だ。

 

これはある意味サバイバルな選択であるが、長いサラリーマン生活において、初めて「自己決定」したというような感触がある。単調な一本のレールにのっかって、多少車両間を移動したことはあったとしても、同じ電車にずっと乗り続けてきたが、ここでやっと終点の駅に着き、次にどの手段で先に進むかを「自己選択」したという感じだ。

 

おそらく「雇用延長」を選択した場合は、また「同じ電車での車両間移動」くらいの感触しかないと思う。一方「自己選択」は、新しい列車、新しい景色が見えるだろう未知の路線、新しい土地への出発というワクワク感が伴うのである。乗車している仲間もまた違うのであり、新しい出会いも期待できるのである。

 

よく「第二の人生」と言われるが、「雇用延長」選択の場合は、「第一の人生」の延長であり、「第二の人生」の新鮮さを味わうには、「自己選択」のほうだと個人的には感じている。もちろん、心の持ちようの問題であろうが。

 

自分の「自己選択」は、職業としては全く未知の世界である「介護職」のゼロスタートを選択した。客観的に見て、「安定」という要素からすると「雇用延長」のほうが格段に有利である。少々サバイバルな選択であるとも思う。現状、労働条件的にはまだまだ厳しい職種であるとも感じる。

 

だけどもこれから社会の需要が高まっていく職種であり、おそらく5年後にはその需要がもっともピークに達することが予測されるので、その時に一人前の仕事ができる準備として今から少しずつ勉強をして力をつけていきたいと考えている。何より「人間力」が鍛えられる職種であることは個人的な魅力である。あるいは人の「老」「病」「死」に接しながら、一人ひとりの幸福のサポートに携わるというのは、「第二の人生」のテーマとしてもよいテーマだと感じている。

 

この職種への就職の場合、過去の人脈など一切不要である。現状、介護職人口は不足気味で、よく言えば「引く手あまた」であり、今後ますますその傾向は増すはずだ。いわゆる団塊の世代が要介護となっていく時期が目前まで来ている。逆に、これで介護職人口が少ないままであると現状の過酷な労働条件がさらに悪化することも考えられ、やはりこの職種の選択はサバイバルでもある。

 

先日から準備として、最も基礎的な技術を身につけるための「初任者研修」というコースに参加した。これは「資格・勉強に時間とお金を使うな」という著者のアドバイスに反する行為である。しかし、この場合、この初期投資は非常に有効であると思う。介護職の労働条件や賃金体系が、こういう資格や技能のレベルで体系化されていることも今回初めて知った。

 

それにしても、これまで人生で皆無であったエプロンを身に着けての仕事。麻痺のある方との接し方、相手の立場を徹底的に考える歩行や移動、入浴、排せつなどのサポート。実践の現場では想像もできない苦労があるとは思うが、研修ではまったく新鮮であった。研修テキストの内容も、マズローの心理学もあれば、脳の機能など医療の勉強もあり、こんなに広く深く勉強が必要なのだと改めて感心した。

 

また受講者も老若男女混成で、そこに役職のヒエラルキーもなく、笑いがとびかう授業であった。これまで勤務していた会社の階層別研修や、企業側の義務を果たすための事務的な研修、誰も発言しないシーンとした講義、受講した日だけはその気になるがすぐに忘れ去られる研修ではなく、実践に直結した研修という味わいがあった。

 

雇用保険について、ハローワークに事前相談にいってみた。給与明細をもって、雇用保険(失業手当)の金額を試算してもらったのだ。自分で計算できるサイトもあるが、それで計算した数字があっているのかどうか心配なので、実際にハローワークの窓口で計算てもらったら、ほぼ合っていて確信が持てた。

 

これまで従事していた仕事と違う仕事に就く場合には、職業訓練を受けるという方法もある。一般的な定年退職の場合(60歳退職で20年以上勤続の場合)は、雇用保険は150日分支給されるが、仮に職業訓練が6か月ある場合では、その期間つまり180日分(6か月分)を受給することができるというメリットがある。

 

しかも、通常の定年退職なら、雇用保険は退職日以降、待期期間の7日+3か月は受給できないが、職業訓練を受ける場合には、上記の3か月を待つことなく受給を開始することができるというメリットがある。失業手当をもらいながら訓練を受けることができるのだ。これまで雇用保険料を支払ってきたのだから、そういう制度を利用しない手はないとも思う。

 

最後に「雇用継続しない」を選択するもう一つのメリット。

保有している年次有給休暇を躊躇なく消化できるということ。雇用を終了するので、後腐れがない。きちんと権利を主張することが可能。最近では「働き方改革」と言われるが、まだまだ「年休を取るのに遠慮がある」という実態がある。まとめて休みをとることなど、なかなかできるものではなかった。ちょっと休むと逆にイヤミのひとつも言われるのが実際である。

 

であるが、こういうときこそガッツリとって、これまでの骨休めをすることが可能なのである。時間をとって「第二の人生」のための体のメンテナンス、体力作りが必要と感じる昨今である。

 

「倫理」の不全が「精神の健康」を脅かす

 

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

 

 話題の本だが、やっと読む機会に恵まれた。

韓国社会における著しい「性差別」の実態を社会問題として取り上げ、著者は日本国民をはじめとする世界中の著者に、「平等」というこものの正しい認識を促そうとしつつ、この問題は単に「倫理」の問題だけではなく、人々の「精神の健康」を脅かすという社会問題に発展しつつあることをも訴えているのではないかと感じた。

 
本書の訳者・斎藤真理子さんの「あとがき」の言葉を引用させて頂くと、本書は「変わった小説だ。一人の患者のカルテという形で展開された。一冊まるごと問題提起の書である。カルテではあるが、処方箋はない。そのことがかえって、読者に強く思考を促す。」
 
カルテというよりも、精神科医のカウンセリング記録を想定したうえで、それをドキュメンタリー小説のようにしあげた作品である。
 
著者のチョ・ナムジュさんは、放送作家であるのに、本書の語り手は精神科医という設定で展開している。おそらくメンタル疾患や、カウンセリングの事情にも詳しいのだろうと思う。
 
はじめの「2015年秋」の章は、解離性人格障害のような症状が現れた妻のことで、夫が妻と共に精神科医を受診する場面から始まる。
 
その次の章から、詳細の家族構成の設定が説明されていく。主人公のキム・ジヨンは1982年生まれなので、43歳で発症したという設定だ。父方の祖母と同居の6人家族の家庭で育ち、姉と弟が一人ずつで、家族構成としては一般的なのかもしれない。さらには、母親の育った家庭環境についての説明も詳細にされる。
 
このような精神疾患の症状が現れる背景には、心理療法の分野では、子ども時代の家庭環境の影響や、祖母ー母親-娘という女性ラインでの連鎖があると言われることから、この設定の説明は非常に興味深かった。そのうえで、女性が特に虐げられるという韓国社会の背景がシンクロしてくることから、かなり現実味を帯びてくる。
 
韓国社会で「平等」の意識改善が進められているとはいえ、これらの現象が取り上げられ、世の中から共感が得られるということは、今だ過去の連鎖が断ち切られておらず、連鎖が続いていると思えるのである。日本においても家長制があったころの男尊女卑文化は、この小説上の祖母や母親の時代と全く変わらない。日本においても同様に、その連鎖は続いていると感じる。家父長制の頃の親に育てられた子供が親となって子供を育て、その子供がまた親となる。途中で悪の連鎖が断ち切られているならば、現在の日本に見られるように、メンタルの疾患が増加することはないはずであると感じる。
 
女性への極端な差別は、女性の自己肯定感を喪失させ、我慢とかあきらめとかストレスとか、そういうものを蓄積させ、それをまた次の世代へ連鎖させていくように感じる。
「女性とはそういうものなのだから、あきらめなさい。我慢しなさい」という意識が世代を超えていく。それに輪をかけて、男性の意味不明の傲慢や無理解、無認識が、それを助長する。
 
解説者のフリーライター伊藤さんは、母親のオ・ミスクの時代の差別が「(女性が)劣った性」としての差別だったのに対し、現代は「(女性が)不当に恵まれている」という攻撃を受けていると分析していた。「ママ虫もいいご身分だよ」というのがそれである。他にも同様に「マイノリティーが不当に特権を得ている」というような攻撃も存在すると述べている。
 
これは、男性の傲慢な意識も世代間連鎖で、さらにその質が捻くれたものへと悪化しているようにも思えるし、マイノリティーへの意見については、社会全体が被害妄想に陥ってきてしまっているようにも感じる。
 
知らぬ間に前世代から受け継いでしまっている自分では気づきにくい悪癖に、読者が自覚できるきっかけを与えてくれる書となれば、社会の倫理面での改善とともに、メンタルの健康改善へつながっていくのではないかと感じた。