「読書について」 ショウペンハウエル
岩波文庫には、「思索」「著作と文体」「読書について」の三篇が収められている。
「思索」の冒頭に書かれている次の言葉は、著者の考えをシンプルに表現した言葉だろう。
「いかに多量にかき集めても、自分で考え抜いた知識でなければ、その価値は疑問で、量で断然見劣りしていても、いく度も考え抜いた知識であれば、その価値ははるかに高い」
そういうところから、著者は決して「読書」を手放しでは勧めない。
巷によくある「読書」本は、「どうしたらたくさん本が読めるか」とか、「自分はこんな本をこういうふうに読んで来た」といった類の本がほとんどである。
しかし、著者に言わせれば「多読」はバツ、また他人の本の読み方などどうでもよいことのようである。
「思索」=すなわち自分の頭で考えることが大事。「読書」はただ他人の考えたことが自分の頭に流れ込んでくるだけであり、むしろ「思索」にとって「読書」は有害であるいう。著者の言葉を借りれば、「読書は自分の頭ではなく、他人の頭で考えること」である。
ではまったく「読書」は不要かというと、そうではなく自身の「思索」をより深く良質なものにするためには、良書を選んで読むことが重要だと述べていると思う。
著者は、「悪書」とか「悪書」を書きなぐる作家を徹底的に嫌悪しこき下ろしている。
「悪書」は読者の金と時間と注意力を奪い取るものだといい、精神の毒薬、精神に破壊をもたらすと手厳しい。
自分自身のために思索をめぐらし、自分として主張すべきものを自分自身の中に持っている者こそが真の思想家と呼べるべき人物であり、そのような人物の著書は読者を鼓舞させてくれ、養分を与えてくれるという。
これに対し、世間から思想家と思われたいとか、名声や金のために書いている作家は、ソフィストであるとして嫌悪の意を呈している。
他人の書の概説書の類は、他人の著書の原形を損なうものである。他人の文体を模倣する者は、仮面をつけた人間同然だと。また、名乗らずに言いたい放題の「匿名」ということについては、徹底的に廃止せよと訴えている。
ルソーの「新エロイーズ」の序文「名誉を重んずる人間はすべて、自分の文章の下にはっきりと署名する」という言葉を引用して。
総じて、著者は「古典」を読めと述べている。
「人生は短く、時間と力には限界がある」という言葉のインパクトは強い。
こうしてショーペンハウエルを読んで、また自分なりに「読書」というものがどういうことなのか、を自分なりに考えてみよというのが、著者の主張であろうと思う。
「思索」の冒頭に書かれている次の言葉は、著者の考えをシンプルに表現した言葉だろう。
「いかに多量にかき集めても、自分で考え抜いた知識でなければ、その価値は疑問で、量で断然見劣りしていても、いく度も考え抜いた知識であれば、その価値ははるかに高い」
そういうところから、著者は決して「読書」を手放しでは勧めない。
巷によくある「読書」本は、「どうしたらたくさん本が読めるか」とか、「自分はこんな本をこういうふうに読んで来た」といった類の本がほとんどである。
しかし、著者に言わせれば「多読」はバツ、また他人の本の読み方などどうでもよいことのようである。
「思索」=すなわち自分の頭で考えることが大事。「読書」はただ他人の考えたことが自分の頭に流れ込んでくるだけであり、むしろ「思索」にとって「読書」は有害であるいう。著者の言葉を借りれば、「読書は自分の頭ではなく、他人の頭で考えること」である。
ではまったく「読書」は不要かというと、そうではなく自身の「思索」をより深く良質なものにするためには、良書を選んで読むことが重要だと述べていると思う。
著者は、「悪書」とか「悪書」を書きなぐる作家を徹底的に嫌悪しこき下ろしている。
「悪書」は読者の金と時間と注意力を奪い取るものだといい、精神の毒薬、精神に破壊をもたらすと手厳しい。
自分自身のために思索をめぐらし、自分として主張すべきものを自分自身の中に持っている者こそが真の思想家と呼べるべき人物であり、そのような人物の著書は読者を鼓舞させてくれ、養分を与えてくれるという。
これに対し、世間から思想家と思われたいとか、名声や金のために書いている作家は、ソフィストであるとして嫌悪の意を呈している。
他人の書の概説書の類は、他人の著書の原形を損なうものである。他人の文体を模倣する者は、仮面をつけた人間同然だと。また、名乗らずに言いたい放題の「匿名」ということについては、徹底的に廃止せよと訴えている。
ルソーの「新エロイーズ」の序文「名誉を重んずる人間はすべて、自分の文章の下にはっきりと署名する」という言葉を引用して。
総じて、著者は「古典」を読めと述べている。
「人生は短く、時間と力には限界がある」という言葉のインパクトは強い。
こうしてショーペンハウエルを読んで、また自分なりに「読書」というものがどういうことなのか、を自分なりに考えてみよというのが、著者の主張であろうと思う。