和辻哲郎の「風土」
この前友人とLINEメッセージを交換してたなかで、高校時代の社会の選択科目にあった「倫理社会」の話題に至った。それで思い出したのだが、その「倫理社会」の先生が、”和辻哲郎の「風土」を読む”という課題を我々に与えたことを思い出した。
どういう経緯とか目的で、この課題を与えられたのか、先生の意図は全く覚えていない。だけども、なんか難しくて、まったく興味がわかなかったことだけは間違いない。
ところが、何十年もたって「これはいったいどんな本だったのか」ということに興味がわいてしまった。それで再チャレしてみることにした。コロナ禍で始めた知人とのオンライン読書会(共通の課題本を決めて、月一でzoomで読後の意見交換をするという単純なもの)の課題本に設定してみた。
第一章。やはりなんか難解である。だけども第一回目の意見交換会にむけて、消化不良のまま読み進めた。先日その第一回めの意見交換会を行ったが、先方(知人)は、すでに全部読み通されており、自分はこの第一章だけ読んで臨んだ。そして知人は言った。
「第一章は、あまり読まなくてもよいのでは・・・」
そんな気もしないではなかったが、第一章の題は「風土の基礎理論」となっているだけに、これを理解しないで先に進んでもよくないのだろうと思い込み、固執してしまった。
著者は、この風土に関する考えを、ハイデッガーの「存在と時間」から発展させたようだ。同署を読んだことがないので、本当のところはよくわからないが、ハイデッガーは「人の存在の構造を時間性として把握した」のに対し、和辻氏は「空間性として把握」することを試みたようである。
本書で「風土」の定義は、「土地の気候、気象、地質、地味、地形、景観などの総称」とされており、これが「時間性」に対する「空間性」を意味しているのだと思う。
「人間の、すなわち個人的・社会的なる二重性格をもつ人間の、自己了解の運動は、同時に歴史的である。従って歴史と離れた風土もなければ、風土と離れた歴史もない。が、これらのことは、人間存在の根本的構造からのみ明らかに生まれ得るのである。」
ここでいう「個人的・社会的なる二重性格をもつ人間」というのは、人間というのは個人としてみるだけでなく、人と人との結合=共同態として、すなわち社会としてみようということのようだ。
例えば個人が「寒い」と感じるだけでなく、同じところで暮らす人々が同様にその「寒い」とい感覚を共有することができる。そこで感じる「寒さ」というのは、自然科学的な実験結果として明らかになった「寒さ」というよりも、その土地の地味とか地形とか景観などが影響して、すなわち「風土」が影響して、その土地の人々に共通に感じられる「寒さ」である。このことを、本書では「風土における自己了解」と言っているようだ。
そのことの証明として、著者は「道具の発見」ということを挙げている。
ある地域の(社会的な側面としての)人間の、「寒さ」に対する自己了解は、家屋の様式に現れたり、着物の形に現れたり、火鉢や炭焼きなど道具の形として現れるという。暑さについても同様である。
このような風土の影響による人間の自己了解は、さらには、文芸、美術、宗教、風習、あらゆる人間生活の表現のうちに見出すことができると述べている。
人間の存在構造を時間性のみでなく、空間性も加味して把握しようとすることで、「歴史と離れた風土もなければ、風土と離れた歴史もない。」という言葉が生まれたのだと思う。
そういう風にとらえることが、「風土の基礎理論」で述べられていることであると理解したが、この内容を踏まえて、次の章では、風土の「三つの類型」について述べられていく。
一、モンスーン
二、砂漠
三、牧場
世界のうちのこの代表的な三つの風土から生まれる人間の自己了解とはいかなるものか、あるいはそういうところから生まれた文化、美術、宗教などはどのようなものかということが述べられているようである。