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河合先生の「カウンセリングを語る」(上・下)

 

カウンセリングを語る(上) (講談社+α文庫)

カウンセリングを語る(上) (講談社+α文庫)

 

 

本書は、四天王寺人生相談所が開催していた年一度のカウンセリング研修講座に、著者が講師として招かれ、実施した講演の前半のほうの記録をもとに編集されたものである。その研修の受講者は、学校の先生などの教育者であったり、学校カウンセラーもいたかもしれないし、これからカウンセラーになろうとしていた人かもしれない。
 
著者は「別にカウンセラーになろうとする人でなくとも、教育、福祉、医療などの領域で、何らかの意味で対人援助の仕事をしている人々にとって、本書はどこかお役に立つところがある、と思っている」と述べている。
 
上下巻あるうちのまずは上巻から。
章のタイトルを見れば、講演に対する興味が膨らむ。

第一章 家庭・学校で問題が生じたとき
第二章 心を聴く
第三章 カウンセラーという人間
第四章 「治る」とき
第五章 限界があることを前提に
第六章 役に立つ反面の危険性
 
本書の内容のすべてと言っても過言ではない内容が、第三章に記されている。読者の期待に対するズバリの回答である。カウンセラーの三つの条件である。たった三つの条件を満たすことができれば、特に勉強などしなくても誰でも一流のカウンセラーになれるという。
 
①カウンセラーは、クライエント(カウンセリングを受けにきた人というような意味)に、まったく無条件に積極的に関心を払っていく(無条件な積極的関心、積極的尊重)。
 
②共感するということ(クライエントの悩み、苦しみ、悲しみ、あるいは喜びをともに感じていく)
 
③自己一致(カウンセラーがその時に言っていることと、感じていること・思っていることがぴったり一致していること)
 
河合先生は、プロの商売道具のエッセンスをいとも簡単に開示されたが、これは簡単なようで、実は非常に難しく、素人には到底できない、トレーニングをつんでもなかなかクリアできない条件だからである。
 
本書の内容のすべてはこの三条件の実施に関する話であって、そのニュアンスをとらえるには、全体の講義を聞く(読む)しかない。ただし、読んだからといって、すぐに実践できるものでもない。だけども、これを知っているか、知らないかで、問題をかかえる人と正しく向き合えるか、全く誤った対応をしてしまうかという大きな差を生じさせてしまう。
 
現代社会はとくに、自分の周りを見回しても、このようなコミュニケーションを求められる場面が非常に多いように感じる。カウンセリングとまでいかなくとも、人の話をきちんと聞かねばならない場面は多い。その時に、この意識をもって接するのと、そうでないのとでは人間関係に全く正反対の結果をもたらすように思える。話の聞き手として、コミュニケータとして、誤った対応をしないために、この知識は非常に有効であると思う。
 
もちろん深刻な内容での本来のカウンセリングを要する場面では、プロのカウンセラーによるカウンセリングで対応せねばならない。本書の中でも、著者が「カウンセリングは命がけである」という趣旨のことを述べているように、中途半端なカウンセリングは危険である。
 
そして、もう一つ重要な事実が本書で明かされている。
それは、カウンセラーがクライエントを治療するのではないということである。カウンセリングにより、クライエントが自らの力で治癒していくのだそうである。つまりクライエントの自己治癒力をアシストするのが、上記の三条件の遂行ということだ。
身近にメンタルの病と闘っている人がいるならば、少なくとも三条件を誤らないことが、本人の自己治癒を阻害しないためにも重要だなと感じた。
 
この三条件の裏返しは、①無関心、②共感できていない、共感しようとしない ③自己一致していない(言ってること、やってることと、心で思ってることが一致していない)だ。・・・確かに、これはよくなさそうだ。河合先生の本は、いろいろと考えさせてくださる。
 

 

カウンセリングを語る(下) (講談社+α文庫)

カウンセリングを語る(下) (講談社+α文庫)

 

 

続いて下巻は、四天王寺人生相談所のカウンセリング研修講座の後半の講演記録をもとに編集されたものであるが、講演の内容は回数を重ねるごとにより深い部分ところに触れることが求められてきたと著者は述べている。下巻の目次は次の通りだ。
 
第一章 カウンセリングの多様な視点
第二章 日本的カウンセリング
第三章 人生の実際問題との対し方
第四章 宗教との接点
第五章 「たましい」との対話
 
全体を通して本書は、カウンセラーやカウンセラーになりたいと考えている人向けに話された講演であるので、それ以外の立場で読むときには、自分に必要なエキスを意識しながら読む必要がある。
 
第一章では、カウンセリングの流派の分類について述べられていた。クライエントの表面に現れた部分を診るのか内面を診るのか(外的現実を診るか、内的世界を診るか)で4事象に分類されていた。
・行動療法(外的現実を診て、外的な治療を行う)
・ロジャーズ派(外的現実を診て、内的な治療を行う)
フロイト派(内的世界を診て、外的な治療を行う)
ユング派(内的世界を診て、内的な治療を行う)
外的な治療は、クライアントに積極的に働きかけていくのに対し、内的な治療はクライアント自身の行動を待つというスタンスである。河合先生はユング派であり、夢の分析など内的世界を診て、クライエントが自分の力で治していくのを待つという方法である。河合先生は、上下巻を通じ、「カウンセラーがクライエントを治しているのではない。クライエントが自分の力で治っていくのを見守っている」と言われている。
 
第二章では、もともとカウンセリングという手法は、欧米から取り入れたものだが、日本でカウンセリングを行うには、日本文化とか日本人というものを考慮したカウンセリングが必要だと述べている。
 
日本は母性社会であり、「なんでもやってあげよう」という考えが強いが、欧米はそうではない。日本人は自我の確立が遅いが、欧米人は早い年代で自我が確立されている。従って、日本においてはいわゆる厳しさ(父性)の要素がカウンセリングに必要であるという。例えば、その例として、時間厳守、料金体系をきちんと決める、カウンセリングする場所を決めて行うなどである。
 
カウンセリングの内容では、ただクライエントを受け入れるだけでなく、「あなたがどう生きるのかと厳しく問う」というような姿勢らしいが、これができるようになるには、カウンセラーも経験が必要であり、カウンセラーにも指導者の存在が必要であるということだ。
 
第三章では、より困難なカウンセリングのケースが多くなってきており、カウンセラーはただ技法の習得のみに終始するのではなく、もっと「地力」を身につけないといけないとの指摘であった。カウンセリングの本以外のもっと多岐にわたる本を読むべきであり(子供の童話が非常に良い教材であるとも!)、その他スポーツでも登山でも様々な体験をすることが必要だと述べていた。
 
第四章では、カウンセリングと宗教の関係は深いと言う。子供が心の病になって、その治療のために金を惜しまない両親の事例が紹介されていた。子供のためにはどれだけお金を出しても構わないから、治してくださいという親。しかし、子どもは全く治らない。ある子供は、様々な環境が整えられている家庭において、「どうしてうちには宗教がないのか」と両親に訴えたという。河合先生の分析は、子どもは「金では買えないもの」を望んでいるんだと。
 
親は、一生懸命、金での解決に努力し、最も肝心な子どもの心の理解ということに気が付かない。そして治らない。親は完璧なつもりでも、何もしていないのと同じ。
 
宗教に入り、人々に尽くすが、自分の子どもに尽くせない親の事例も紹介されていた。
しかし本当に、親子ともに一緒に乗り越えられたとき、「人の気持ちがよくわかるようになった」と言われる人が多いとの著者の言葉も印象的であった。
 
最後の章では、エレンベルガーという人の分析・・・心の病は「創造的な病」であるという言葉が紹介されていた。フロイトも、ユングもともに心の病に苦しみ、それを克服し、心理学としての体系をなすという創造的な仕事をした。夏目漱石が極度の神経衰弱で苦しんだ後に、すぐれた文学を世に送り出したことも記述されていた。
この病に打ち勝った時、創造的な世界が展開されるという事実がある。
 
カウンセラーの立場でない自分は、第一章、第二章は、参考レベル、第三章以下に関心をもって読んだ。