気ままな読書ライフ

気ままな読書日記

無意識の自動運転

例えば、「人前で話をするケースで、あまりにもいろいろなことを意識しすぎて、緊張が高まってしまい、うまく思ったことがしゃべれかった」とか、「苦手なタイプの人と会うとどうも会話をするまえから身構えて、会話がぎくしゃくしてしまった」とかいうことは、誰にでもよくあることだ。

 

こういう場合に、いろいろなことを意識したり、身構えたりするというのが、「意識」のワルサであるということがこの本に書かれていた。この仕組みを知って、なるべく「意識」を取り除き、「無意識」の自動運転ができるようになれば、人生がハッピーになるという趣旨の本である。

 確かに、意識しすぎて緊張したり、身構えたりするようなことが無くなれば、非常に生きやすくなり、無敵に感じられるようになるかもしれない。

 

この著者は、心理カウンセラーであり催眠療法による治療に取り組んでおられるようだが、その治療法よりも、その根底にある「意識」の性質を述べられた部分が非常に興味深かった。

 

「意識/無意識」ということは、心理学の世界で、フロイトユングの研究があると思う。以前、ユング派で日本の代表的な心理療法家の河合隼雄先生の「無意識の構造」という本を読んだことがある。

as-it-is.hatenablog.com

 

 意識は心全体の氷山の一角のようなもので、日常生活(意識の世界)に現れる課題は、深層心理である無意識の部分の影響によるものだから、例えばメンタルの治療には、無意識層にある根本的な原因を治療していくことが必要だというのが、心理療法と言われるものだと思う。

 

しかし、本書(「無意識さんの力・・」)の著者は、それとは違う角度で「意識/無意識」について述べられていた。

 

著者の主張は、一言でいえば、「意識」は「思い込み」や「決めつけ」が多く、「意識」に基づき浮かんだ考えや行動は、必ずしも正解とは限らないというものだったと思う。先の例で行くと、「大衆の前で失敗したらどうしよう」とか、「難しい質問が来て耐えられなかったらどうしよう」とか、「相手は自分のことを嫌っているのでは」とか、そういうのは客観的データに基づいた真実の考えではなく、単なる自分の勝手な「思い込み」「決めつけ」である場合が多いので、その意識そのものが非常にいい加減ものだということを述べられていたと思う。

 

確かに、不安とかいうものは、自分のフィルターから判断した、勝手な「思い込み」「決めつけ」かもしれない。そういういい加減なもので、いちいち緊張したり、身構えたりするというものアホらしいと言えばアホらしい。

 

著者はまた、「意識は有限、無意識は無限」ということを言っている。

これは面白い表現で、これについても色々と思い当たることがある。

 

ユングが研究した無意識の構造は、古代の仏教で説かれたものと非常に共通しているということを、ユング自身が言っている。例えば、天台宗に「九識論」という心を体系的な考え方がある。心の九階層である。

 

第五識(眼・耳・鼻・舌・身体)・・・いわゆる五感というやつ。

第六識(意識)

第七識(末那識=マナシキ)

第八識(阿頼耶識=アラヤシキ)

第九識(阿摩羅識=アマラシキ)

 

第七識~第九識が、「無意識」層ということになる。

例えば、第八識(阿頼耶識)は、人生の中のすべての行為について蓄積されたデータベース的存在である。良い行為も、悪い行為も、どんな小さな行為もすべて記録されている。経験データベースとも言ってよいし、仏教用語でいえば「宿業」というやつだ。

よく、人は死ぬ瞬間に「走馬灯のように思い出す」と言ったことをきくが、それはこのデータベースの最終処理に何か関係しているではないかなと考えたりする(笑)。

 

つまり、「意識は有限、無意識は無限」というのはなんとなく納得できる。

著者は、「無意識」には無限の可能性を秘めているのに、「意識」によって自分の浅はかな「思い込み」や「決めつけ」により、無限の可能性の目をつぶしているというようなことを述べている。だから、余計な「意識」を取り除いて、「無意識」の自動運転状態に持っていけ、というのが本書の趣旨らしい。

 

本書には、「意識」のいい加減さについては、存分に述べられているが、「無意識」の自動運転についてはまだまだ説明不足と感じる(本当は知っているが出し惜しみか?笑)。

 

本書では「奥義」として、「意識しないこと」となっている。

少なくとも、容易な「思い込み」や「決めつけ」を配することは、無駄なストレスの軽減に通じるし、可能性の拡大、他人に対して受容できる度量の拡張などに通じるように思える。そういうことが習慣化できてくれば、より「無意識の自動運転」に近づけるのかもしれない。