眼光紙背に徹す
読書は楽し。
良い本と出会い、できるだけたくさんの本を読みたい。これは本読みの共通の望みだろうと思う。しかしながら、ちょっと振り返ってみると、「できるだけたくさん読みたい」という気持ちも、前と今では少し違ってきたように思う。
少し前には、ともかく読書量を意識していた時期があった。つまり何冊読めたかに読書の意識の比重が偏る。こうなると速読というか乱読と言うか、そういう形の読書になり、「読了、ハイ終わり。次・・・」というような感じの読みとなる。これは正直、本の内容がいくら良くても、読んだ本人にはあまり身になっていない。今から考えると非常にもったいない読み方だったなと思う。
それを自分の中では、若干ロスタイムと感じている節があり(笑)、これからはできるだけ良い本にめぐりあって、質の高い読書を増やしていきたいなという気持ちがある。やっと世間並みになれた気分だ。
ある読書論の原稿(書を読むの心がまえ)に、「眼光紙背に徹す」と言う言葉が出てきた。いままで読んだ本には登場したことのない言葉だ。もちろん日常でも聞いたことがない。意味を調べてみると、こういう説明だった。
「書物に書いてあることを、表面だけでなく真意まで理解することのたとえ。読解力に長けていること。」
するどい眼は、紙面の裏側まで見通す。文章の背景にある考えや著者の考えをガッチリ理解するというような意味のようだ。
その原稿には、次のようなことも書かれていた。
・乱読はうわすべりの学問はできても、深い思想点に達することはできない。
・一人の人の思想に止まると、それ以上のものが受け入れられなくなる。
・優れた著者の文章には、その背景に膨大な研鑽の蓄積があるのであり、その一部を読んだだけで分かった気になるな。謙遜の気持ちで読むことが大事。
・最初から質の高いものを読め。それが最も効率的な読書だ。
とても参考になる助言だと思った。