話題の本だが、やっと読む機会に恵まれた。
韓国社会における著しい「性差別」の実態を社会問題として取り上げ、著者は日本国民をはじめとする世界中の著者に、「平等」というこものの正しい認識を促そうとしつつ、この問題は単に「倫理」の問題だけではなく、人々の「精神の健康」を脅かすという社会問題に発展しつつあることをも訴えているのではないかと感じた。
本書の訳者・斎藤真理子さんの「あとがき」の言葉を引用させて頂くと、本書は「変わった小説だ。一人の患者のカルテという形で展開された。一冊まるごと問題提起の書である。カルテではあるが、処方箋はない。そのことがかえって、読者に強く思考を促す。」
カルテというよりも、精神科医のカウンセリング記録を想定したうえで、それをドキュメンタリー小説のようにしあげた作品である。
その次の章から、詳細の家族構成の設定が説明されていく。主人公のキム・ジヨンは1982年生まれなので、43歳で発症したという設定だ。父方の祖母と同居の6人家族の家庭で育ち、姉と弟が一人ずつで、家族構成としては一般的なのかもしれない。さらには、母親の育った家庭環境についての説明も詳細にされる。
このような精神疾患の症状が現れる背景には、心理療法の分野では、子ども時代の家庭環境の影響や、祖母ー母親-娘という女性ラインでの連鎖があると言われることから、この設定の説明は非常に興味深かった。そのうえで、女性が特に虐げられるという韓国社会の背景がシンクロしてくることから、かなり現実味を帯びてくる。
韓国社会で「平等」の意識改善が進められているとはいえ、これらの現象が取り上げられ、世の中から共感が得られるということは、今だ過去の連鎖が断ち切られておらず、連鎖が続いていると思えるのである。日本においても家長制があったころの男尊女卑文化は、この小説上の祖母や母親の時代と全く変わらない。日本においても同様に、その連鎖は続いていると感じる。家父長制の頃の親に育てられた子供が親となって子供を育て、その子供がまた親となる。途中で悪の連鎖が断ち切られているならば、現在の日本に見られるように、メンタルの疾患が増加することはないはずであると感じる。
女性への極端な差別は、女性の自己肯定感を喪失させ、我慢とかあきらめとかストレスとか、そういうものを蓄積させ、それをまた次の世代へ連鎖させていくように感じる。
「女性とはそういうものなのだから、あきらめなさい。我慢しなさい」という意識が世代を超えていく。それに輪をかけて、男性の意味不明の傲慢や無理解、無認識が、それを助長する。
解説者のフリーライター伊藤さんは、母親のオ・ミスクの時代の差別が「(女性が)劣った性」としての差別だったのに対し、現代は「(女性が)不当に恵まれている」という攻撃を受けていると分析していた。「ママ虫もいいご身分だよ」というのがそれである。他にも同様に「マイノリティーが不当に特権を得ている」というような攻撃も存在すると述べている。
これは、男性の傲慢な意識も世代間連鎖で、さらにその質が捻くれたものへと悪化しているようにも思えるし、マイノリティーへの意見については、社会全体が被害妄想に陥ってきてしまっているようにも感じる。
知らぬ間に前世代から受け継いでしまっている自分では気づきにくい悪癖に、読者が自覚できるきっかけを与えてくれる書となれば、社会の倫理面での改善とともに、メンタルの健康改善へつながっていくのではないかと感じた。