気ままな読書ライフ

気ままな読書日記

「母よ嘆くなかれ」 パール・バック

今日は、朝6時過ぎから近くの公園にウォーキングに出かけた。

昨夜から明け方の間に少し降ったのか、地面はまだ湿気が残っていたが、雨はもうやんでおり、青空が清々しく広がっていた。いつものコースを歩いていると、満開のピークを若干すぎたばかりの河津桜河津桜にしては遅咲きなのだろうか)が美しく、思わず立ち止まってしまった。

 

今朝、新聞の「名字の言」というコラムで、障がい者についての記事が載っていた。

障がい者に優しくしよう」との表現は適切でない・・・という言葉に、「え?」と思い、次を読み進めると、「障がいのある人がいるからこそ、私たちは優しくなれる」という言葉がより適切な表現だと感じたという主張だった。そして、そこにパール・バックの著書「母よ嘆くなかれ」のことが紹介されていた。

 

母よ嘆くなかれ 〈新訳版〉

母よ嘆くなかれ 〈新訳版〉

 

  

パール・バックには、知的障がいの娘さん(キャロラインさん)がおり、その娘さんを育てた日々のことが本書に綴られている。この本は、我が家の書棚にもある。家内が買ったものである。

 

第1章の冒頭、パール・バックはこう語り始める。

「わたしがこの話を書く決心をするまでには、ずいぶん長い間かかりました。」

自分の身上の話をすることにためらいがあったからだ。ある日の朝、一時間ほどの冬の森の中の散歩を終えて、ようやく書こうと心を定めたという。ちょうど、自分が今朝ウォーキングしたような自然の豊かなところだったのだろうと思うが、今日の私のような落ち着いた気分ではなかったはずだ。

 

パール・バックは、自分の悩んできたことを綴ることで、同じ悩みをもつ母親になんらかのヒントを与えることができるのではないかと考えたこと、そしてもう一つは、知的に障がいがある自分の娘の生が、他の人に役立つのではないかと考えたからである。

 

普通の幸せな夫婦の間に、障がいのある子が生まれる。これは突然やってくる。たいていの場合、まずそういうことが起こるということすら考えないものだろう。パール・バックもそうだった。自分の子どもに異常があると感じたのは3歳を過ぎて「言葉が遅いな」と感じた頃からであった。「まさか自分の子どもに限って」という思いが強く、なかなか受け入れることができない。

 

そういう思いから綴られているパール・バックの母親としての痛切な思いは、語るに忍びないものがある。まったく思いが理解できるだけに、軽々しく文章にはできない。そういう辛さをやっとの思いで乗り越えて、キャロラインさんが10歳になったときに、ようやくペンを執ることができて書かれたのが本書である。

 

「とにもかくにも、悲しみと融和の道程がはじまったのです。その第一段階は、あるがままをそのままに受け入れることでした。」

 

「私はその絶望のどん底から這い出ることを学びました。そして這い出てきたのです。そして『これが私の人生なのだ。私はそれを生き抜かなくてはならないのだ』と悟ったのです。」

 

「月日がたつにつれて、わたしは生きていく以上、悲しみを抱いて暮らしていても、その中で楽しめることは大いに楽しむようにつとめるのは当たり前だ、と思うようになっていきました。」

 

「わたしの魂の力を、反抗のために使うことをやめました。わたしはそれまでのように「なぜ」と問わなくなりました。問わなくなった本当の秘密は、自分自身のことや悲しみについて考えるのをやめて、娘のことだけを考えるようになったところにあります。」

 

パール・バックが考えた「娘のこと」とは、将来の自分の寿命が尽きた後の、娘の安全と幸福のことだった。

 

最初に彼女は、娘の能力、可能性について確認しようとした。教えたり、トレーニングしたりすることで、自分の娘が、どこまで自立してできるのかを確認しようと思った。娘の将来を思うがゆえに、時にはスパルタ的にもなったようだ。そして、そのトレーニングを受けていた娘さんの本当の心の思いを知ったとき、それらが全く無駄なことだったということに気づく。

 

娘さんには、娘さんの人間としての好みがあり、自由があり、生き方があり、幸福がある。キャロラインさんは、知的な能力は低くとも、音楽に関する感性は非常に優れていた。好き嫌いがあり、文字が読めなくても、どのレコードがどれかがわかり、たくさんの中から自分のお気に入りを選び出し、鑑賞し、自分の心で感じることができた。

 

パール・バックは、娘のありのままのすべてを受け入れ、そして同じように娘のことを受け入れてくれる人と施設を探すことを決意した。それが娘さんの将来の安全と幸福を確実にするものだからだ。

 

多くの施設を訪れてみて、そのときにパール・バックがどのような印象を抱いたかが記されている。見栄えばかりが立派で、考え方の最低な施設長の例、劣悪な環境の中で人間として扱われていない子どもたちがいる施設の例、そういう劣悪な環境の施設を子どもたちの視点に立ってすべてを改善した素晴らしい施設長の話、そしてパール・バックがこの施設なら娘のことを任せることができると決めた施設の話など。

 

大事なのは「心」である。障がいのある子どもたちのことを、本当に一人の人間として考え、その安全と幸福を考えることができる、そういう「心」が大事である。

 

冒頭の新聞のコラムにあった「障がいのある人がいるからこそ、私たちは優しくなれる」という言葉には、その「心」が込められているようにも感じる。

 

パール・バックは語っている。

「わたしは、この歩んでいかねばならない最も悲しみに満ちた行路を歩んでいる間に、人の精神はすべて尊敬に値することを知りました。人はすべて人間として平等であること、また人はみな人間として同じ権利をもっていることをはっきりと教えてくれたのは、他ならぬ私の娘でした。」

 

「わたしはこのような体験をしなければ、決してこのことを学ばなかったでしょう。もしわたしがこのことを学ぶ機会を得られなかったならば、わたしはきっと自分より能力の低い人に我慢できない、あの傲慢な態度をもちつづけていたにちがいありません。娘はわたしに『自分を低くすること』を教えてくれたのです。」

 

本書には、さらに娘さんが施設での暮らしを始めてからの、母パール・バックの気持ちが綴られているが涙なしでは読めない。「自分自身のことや悲しみについて考えるのをやめて、娘のことだけを考える」という戦いが、ここでも続いていた。