「坂の上の雲」第二巻を読み進める
今日は、春らしい一日だった。我が家の庭の鉢植えの桜も開花した。
ついでに、近くの桜が美しい公園の様子も見に行ってみたが、こちらは一輪、二輪咲いている枝があったものの、開花まではもう少しかかりそうな感じだった。蕾はすでに準備が整っている。
4月1日から就業する会社から、入社関連の資料が届いていた。そのなかに雇用前検診の依頼文書があったので、さっそく最寄りの病院に電話予約をした。予約は、直前の3月27日しか空いていないとのことだったが、基本的な検査項目であれば、その日のうちに結果がもらえるとのことで安心した。
といっても、読み始めたときがハードカバーだったので、文庫本の第二巻には、すでに読んだ章も含まれていた。「日清戦争」「根岸」「威海衛」の各章は、既読なので、その次の「須磨の灯」の章から読み進めた。
「須磨の灯」「渡米」「米西戦争」「子規庵」と来て、あと残りの「列強」を読むと、文庫本の第二巻は読了となる。
「須磨の章」
従軍記者として出発した子規だったが、日清戦争は日本の勝利で終結し、子規はわずか1か月の従軍で帰国の途につく。その船上で、子規は血痰を吐き、即刻神戸病院に運び込まれた。持病の結核が悪化したのだ。神戸病院から須磨保養院へ移り、そして伊予松山へ帰省する。
神戸病院への入院時には、後輩の高浜虚子は京都におり、度々子規を見舞ったが、その際に、子規は自分の後継者になってくれと虚子に請うた。
松山に戻り、少し体調を取り戻した子規は、友人の夏目漱石(当時は松山中学の英語教師)の下宿へ転がりこむ。結核患者が下宿に転がり込むという神経も信じがたいが、それを受け入れる神経もまた同様だ。そして、その漱石の下宿を「愚陀仏庵」と名付け、我が物顔で使っていたのが子規である。
「渡米」
明治30年6月26日、秋山真之は、米国留学の発令を受ける。送別会が催されたが、子規は病身のためその送別会には出席できなかった。自分の体調を振り返り、もう真之に会えないかもしれないと句を詠む。
「君を送りて 思うことあり 蚊帳に泣く」
真之は、ワシントンの日本公使館に赴任し、戦略と戦術の研究に没頭する。
「米西戦争」
真之の米国滞在時に、キューバをめぐるアメリカースペイン戦争が勃発する。
日本の観戦武官として、柴五郎とともに、真之は任命されるが、この時に書き上げた真之のレポートは非常に優れた出来で、「正確な事実分析と創見に満ちた報告書」であったと評価されている。この評価により、後に真之はバルチック艦隊に対抗する参謀に任じられることとなる。
「子規庵」
真之が渡米している間、子規は再び陸羯南の新聞社「日本」で仕事をしつつ、根岸で養生している。その子規の意外な一面が書かれている。
当時の家賃5円、米屋への支払い4円に対し、菓子代が1円50銭を下らなかったという。子規は菓子好きで、「菓子を食うと書ける」と言っていた。死病と言われる結核を患いつつ、菓子をバクバク食いながら仕事をする子規という人物は面白い。
しかし、このころの子規の文筆活動はすさまじかったようだ。
「あしは、この小庭を写生することいよって、天地をみることができるのじゃ」と、どこにいようと短歌を作り、俳句を作ることができると宣言していた。そして、このころ子規の既成歌壇に対する批判もすさまじかったようだ。
「歌よみに与ふる書」に、歯に衣着せぬ手厳しい批評が記されている。
「ちかごろ和歌はいっこうにふるっておりません。正直にいいますと万葉いらい実朝いらい和歌は不振であります」
「貫之は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集に有之候」
もちろんこの批判に対する反発が強く、しかしそれに一歩も引かず子規はそれらに反駁していった。
おそらく、自分の健康状態と、自分が短歌・俳句に残すべきこととの天秤が、子規を執念の人にが変えたのではないかと感じる。
真之曰く「升さんは俳句と短歌というものの既成概念をひっくりかえそうとしている」