気ままな読書ライフ

気ままな読書日記

ゲーテとカフカの名言対決

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4月はほとんどブログ更新ができず、あっというまに「平成」の時代が過ぎ去った。

といいつつも本だけは何冊か読んでいたので、「令和」の初更新は、「平成」の時代に読んでいた本についての記事となってしまった。

 

ゲーテカフカ、あまりにも著名な文豪だが、「希望名人ゲーテ」と「絶望名人カフカ」の名言対話とは、非常に興味をそそるタイトルだ。ゲーテの名言集はこれまでも読んだことがあるが、カフカの名言というのは考えてみるとあまり印象にない。

 

それに、希望の名言なら読んでみたいと思うかもしれないが、絶望の名言とはいったいなんぞやというのが第一印象だ。

 

これは、カフカと言う文豪の知らない部分を知ることができる本ではないか、また同時にゲーテについて理解を深められる本ではないかと思い、読み始めたのでした。

 

テーマごとに、ゲーテのプラス思考の名言と、カフカのマイナス思考の名言が、見開きで左右に紹介され、次の見開きで、それぞれの言葉の背景などが著者によって解説されている。テーマごとに完結していく読みやすいつくりとなっている。

 

なるほどなるほど、ゲーテ楽天的で明るく、プラス思考、活動的。名言にも読む人を励ます力がある。しかし一方カフカのほうは、非常に繊細であり、ことごとく物事をマイナスにとらえ自分を絶望に追い込んでしまう。カフカの絶望の名言を読むことに意味はあるのか?

 

ところが、本書の著者は、本書に先立ち「絶望読書~苦悩の時期、私を救った本」という本や、そのほかにもカフカに関する本を書いており、著者自身がカフカの絶望名言により救われたという実体験の持ち主であった。突然の病で、ひきこもり的な生活を13年間も経験されている。

 

本当に自分自身が絶望に陥っているときには、ゲーテのような超プラス思考の言葉は、眩しすぎて入ってこないのだという。それよりも、カフカの言葉に救われ、そして元気を取り戻し、ときにゲーテの言葉にも励まされるようになったようだ。

 

本書には生きづらさと闘ってきたカフカの人生が描かれている。彼の闘いが、後世の生きづらさと闘う人たちを救う力をもっていることを考えると、彼の闘いに存分の敬意を表したくなる。

 

随分昔、読んでもう内容をすっかり忘れてしまっている「変身」を思わず青空文庫でダウンロードしてしまった。

 

文庫 絶望名人カフカ×希望名人ゲーテ: 文豪の名言対決 (草思社文庫)

文庫 絶望名人カフカ×希望名人ゲーテ: 文豪の名言対決 (草思社文庫)

 

 

変身 (角川文庫)

変身 (角川文庫)

 

 

 

 

宮城谷「三国志」 キャストがずらり勢ぞろい

 

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久しぶりのブログ更新。

通勤本の宮城谷「三国志」第二巻を先日やっと読み終えて、今朝もう一度ななめに、振り返りの通読をしてみた。そうでないと、前半部分がまったく思い出せなかったからだ(苦笑)。

 

第二巻は、後漢第8代皇帝の順帝の后であった太后の摂政としての政務の場面から始まる。順帝が崩じた後、9代沖帝、10代質帝の摂政として政務を執っている。この時代は女性による摂政が多い。政務といっても、現代の政治とは違い、幼い皇帝の面倒を見るというようなことも政務の中には含まれているのだろうかと思ったりする。

 

太后には、李固という有能な側近がおり、実質的には李固の補佐によって、善政が維持されていたといってもよい。

 

一方、太后には梁冀という弟がいたが、これがとんでもない悪玉だ。姉の権威を笠に着て成り上がり、誰も求めていないのに勝手に政治に首を突っ込み、ついには己の利益のためだけの暴政を操るようになる。その梁冀が自身の権力増長のために利用したのは宦官だった。逆に宦官は、甘い汁をすすりながら、上手に世渡りをしていくために、権力をもつ梁冀にすり寄る。悪は悪と結託する。

 

こういう世相を憂う良識ある人物が度々現れては上奏するが、悪が善を駆逐する構造ができ上ってしまっている。上奏も宦官たちに握りつぶされてしまい、逆に排斥される結果となる。

 

こういう構造は、現代社会にも必ず存在するだろう。悪と戦うためには、善の勢力もかなりのパワーが必要だ。

 

こうして、梁冀の暴政はかなり長いこと続く。物語もそのような不快でつまらない時代の解説が続くため、第二巻の前半はかなり退屈だ。ずっと忍耐の読書だ(笑)。

 

梁冀は、自らの利用できる桓帝を擁立するが、ひょんなことからこの桓帝に誅殺されてしまう。梁冀を葬った桓帝はヒーローかと思いきや、そうではない。桓帝もまた五十歩百歩、似たり寄ったりだ。

 

そもそも桓帝は好色で、自分の最愛の女性を排斥しようとした梁冀に逆切れしただけの話だ。その後も、桓帝は宦官を高処遇とするなど、ほとんど様相は変化せず暴政は継続するのである。

 

このような政権下で、人びとが満足するはずはない。こういう世の不満・ストレスがついに爆発した。それが黄巾の乱だ。太平道という教えを奉ずる張角と言う人物が、各地で信者を拡張し、一気にものすごい勢力と化していく。そのなかには、太平道の信者だけでなく、さまざま不満分子が混ざり込んでいただろう。

 

このようなまさに乱れに乱れ切った時代の中で、劉備玄徳、曹操孫堅がほぼ同じ時に誕生するのである。そこからまた20年ほど遅れて、司馬懿仲達が生まれ、諸葛亮孔明が生まれるのである。劉備玄徳は、張飛関羽との出会いを果たすのである。

 
 
ついにキャストの名前が出そろってきた。大三国志のドラマの幕が切って落とされるワクワク感がこみ上げてきた。
 
 

  

三国志 第二巻

三国志 第二巻

 

 

 

 

乱読のセレンディピティ

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少々多忙なシーズンだ。通勤カバンの中には、楽しみの宮城谷「三国志」の第2巻が入っているが、あれは「本気で読むぞ」という気持ちで読まないと内容がぼけてくるため、自主的に一時停止中である。
 
そういうじっくり落ち着いて読めないときには、新書やこういう「読書のための本」みたいなのを手に取ることが多い。「読書のための本」には、「読書とは何か」を語るものもあれば、「読書の効用」を語るものもあるし、「オススメ本の紹介」的なものもある。どれも興味深いが、本書は「読書の方法論」的な本だろうか。
 
以前、「知の巨人」と呼ばれる立花隆氏と、「知の怪物」と言われる佐藤優氏の対談本「僕らの頭脳の鍛え方」と言う本を読んだことがある。そこにはずらりと両氏のオススメ本が紹介されていた。それらを片っ端から読んでいけば「知の巨人」とまでならなくても、「知の小人」くらいは目指せるかもしれないと感じたが、果たしてそうすることが自分にとって意味あるのかと考えてみたら、すんなり「ない」という結論に至った(笑)。
 
多数列挙されているリストの中から本当に読んでみたいなと思うものだけを数冊ピックアップして自分の読書リストに加えた覚えがある。やはり若いころにいろいろなものを読んでおくのがよいと後悔した。歳をとってからだと、よい本でも自分にとっての「賞味期限」が切れてしまっていることが多いと感じる。
 
ところで、この本のタイトルの「セレンディピティ」という言葉は、日常あまり使う言葉ではない。サブタイトルにある「思いがけないことを発見する」という意味。科学の研究などで、目指している研究の中で、まったく予想外の発見がされた場合などで使われる言葉のようだ。
 
本書は、著者の豊富な読書の経験と豊富な著書執筆の経験の中から発見されたことをエッセイ的にまとめられたもので、そこからまた読み手もいくつかの発見が得られるように思う。
 
著者は、「乱読」そして「乱談」(雑談、座談のようなイメージ)をオススメである。
一つのジャンルにこだわっているのではなく、知らない世界に飛び込んでいくようなイメージで自分はとらえた。
 
「乱読」の章では、あらかじめ知識がある程度ある内容を読むことを「α読み」とし、全く知識がない内容を読むことを「β読み」として、著者は「β読み」のほうを奨めている。乱読ができるのは「β読み」ができる人だそうだ。
 
興味がわいたら知らない分野へでも飛び込んでみよう。知識ばっかり増やしても「知識メタボ」になるだけ。思考力を鍛えよう。というようなことを著者のメッセージとしてうけとめた。
  
乱読のセレンディピティ (扶桑社文庫)

乱読のセレンディピティ (扶桑社文庫)

 

 

朋有遠方より来る

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「朋有遠方より来る」は論語の学而第一の一節。

「子曰、學而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎」

 

「朋遠方より来る有り」と読むんだと習った記憶もあるが、読み下し方でいろいろと意味が異なってくるようであり、ややこしいので(笑)、今日のところはコレで。

 

昨日、家内の友人が愛媛県から上京したついで、転居先の我が家へ立ち寄ってくれた。我が家の転居後の来客第一号かもしれない。手土産に、嬉しくなるこんなお菓子を持ってきてくださった。

 

「ぼっちゃん団子」はあまりにも有名だが、「ぼっちゃんとゆかいな仲間たち」ならず、「おかしな(お菓子な)仲間たち」とは、なかなかぼっちゃんっぽい洒落のきいたネーミングだなと思った。仲間たちの顔ぶれも、重鎮「一六タルト」のほかに、若手のお菓子が何種類も詰まっていて楽しい。それに加えて、この箱のマンガがいい味が出てる。ぼっちゃんは、ちょっと西郷どんっぽいが、赤シャツ、マドンナ、ちゃんとキャラクターをとらえているな~と感心した。

 

ところで、「朋」という字は、「友」とは少し意味が違い、「朋」は学問の同窓という意味合いがあるようだ(以前、宮城谷昌光氏が強調されていたのを覚えている)。

そうすると、昨日の家内の友人は、「朋」か「友」かということになるが、「朋」で正解のようである。

 

先の学而第一の大意は、孔子が言うに、師から学んだことを何度も繰り返し理解を深めることはなんと楽しい事か。志を同じくする友人が、遠方からやってきて一緒に語り合うのは喜ばしいことだ。そのことを他人に理解されなくても気にしない、というのは立派なことだ」というようなことで、昨日の二人の会話(時々、私もチャチャを入れさせて頂いたが)は、それに近い趣きがあったように感じた。

 

学問の振り返りというよりも、もっと深く人生の振り返り的な会話で、久しぶりにあったたったの数時間の会話で、よくもこれだけたくさんの話題を語れるものだと、感心を通りこして感動に近いものがあったな。

 

坊っちゃん (新潮文庫)

坊っちゃん (新潮文庫)

 

 

ジャズ入門

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「好きな音楽のジャンルは?」と聞かれたら、「ハードロック」と答えていた時期が長かった。いや過去形ではなく、今も好きであることは間違いない。

 

特に気分が乗らないとき、落ち込んだ時、やる気が出ないときなどには、Deep PurpleのHighway Starや、Led ZeppelinのRocK and Rollなど、勢いのあるサウンドにパワーをもらったように思う。はたまた、どうしようもなくヤケクソの気分の時には、アルコールで脳内に麻酔をかけたうえで、Black SabbathやIron Maidenをフルボリュームで聴きながら「何もかもクソくらえだ」と自暴自棄の夜を過ごしたこともあった。

 

もちろん、今回世界中で人気が再燃したQueenのように、日常の元気促進のロックもある。ロックは元気の源、リポD的な存在だった。

 

ところが、あるとき、それも辛い時期に心に浸透してきたのがジャズだ。

初めて聴いたアート・ブレイキーのドラムには、ハードロック以上のパワーを感じた。

ドラムを破くのではないかと思うくらい強烈なドラミングをするジョン・ボーナムが地味に思えるほど、アート・ブレイキーの洗礼は強烈だった。

 

ジャズの世界に首を突っ込んでみると、太平洋へ航海にでたような感じだ。これと比較するならハードロックは日本海くらい規模に感じる。ともかくジャズは大海で広く、無限に広いという感じがする。そもそも、ハードロックの原点的なバンド、ヤードバーズのバンド名は、サックスの神様チャーリー・パーカーヤードバーズと呼ばれていたことに由来しているらしく、ジャズの枝流にハードロックがあるという感じがしないでもない。

 

そんなジャズの大海だから、少々首を突っ込んでも、まだ湾の中をウロウロしているところだ。まぁ、力まず楽しもうと思うが、最近のお気に入りはこのマンガ。「ブルー・ジャイアント」の主人公・宮本大が、日本を出て世界でNo.1のサックス・プレイヤーを目指すストリーで、その世界進出編が「ブルー・ジャイアント・シュープリーム」。

 

今回は、この前結成したばかりの「ナンバーファイブ」というバンドでのオランダでの初ライブが大成功する。紙面から音が聴こえるマンガというキャッチもあるくらい、ライブの臨場感は今回も凄かった。

 

そしてもう一冊の入門アイテムは1000円のこの本。他にも名盤紹介本はたくさんあるんだろうけど、この本気に入ってる。今日はこの中から、アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズの「ザ・フリーダム・ライダー」を聴いた。本書の解説には、この「フリーダム・ライダー」とは自由騎士団のこととある。

 

白人による黒人への人種差別に抵抗したバス・ボイコット運動。その後、バス内での人種による区別は違法とされたにも関わらず南部では、実態は何も変わることなく、差別状態が続いていたという。そういう実態を正そうと、白人と黒人がバスに同乗して南部へ乗り込んだ、その彼らのことをフリーダム・ライダーと呼んだのだそうだ。

 

この「フリーダム・ライダー」というアルバムが出されたのが、この事件の直後だというから、アート・ブレイキーもまた戦いの強力な援護射撃をしていたということになるのかな。

 

 

いまなら1000円で買える JAZZ100年の大名盤500 ジャズの1世紀をポケットに!

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音楽がからむ本

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ブログ更新は2週間ぶりだ。とくに、先週半ばくらいから風邪気味で、昨日の土曜日も不調ったが、今日の夕方になってようやく復活の兆しだ。ありがたい。

先週の通勤本は、この「ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる」だった。この著者との出会いは今回初めてだけれども、経歴を読んだり、他の方の書評を読んだりすると音楽にも、歴史(特に日本史?)にも、はたまた怪獣にも詳しい方のようで、今後も出会いがありそうな気がする。

 

本書の中でも、突然「キャプテンウルトラ」なんていう超昔の怪獣番組名なんかが出てきたりした(笑)。この著者のそっち系の本なんかも楽しめそうだ。

 

ところでこの本は、このタイトル名にひかれて、例によって図書館で借りた。「なぜ?」という疑問が当然わいてくる。

 

読んでみて、クラシック音楽はその時代、その時代で、歴史的な背景に大きく影響を受けている・・・なので、時代時代で曲のつくりは異なるのだ、というようなことを述べられていたと思う。もちろん面白かった。

 

バッハも、ヘンデルも、ベートーヴェンも、メンデルスゾーンも、シューマンも、モーツァルトも、ショパンも、ワーグナーも、マーラーも、ラヴェルも登場する。音楽の授業で一度は聞いたことのある名前だ。

 

こうして名前を羅列してみたところで、それぞれの作曲家が作曲した曲を聴かされて「これは誰の曲?」と問われても答えられないくらいの素人である。

 

それでも、おそらくベートーヴェン交響曲第五「運命」だけは誰でもわかる。それは、ベートーヴェンがそれを狙ってこの曲をこういうふうに作ったからだということがわかった。ベートーヴェンは大衆の誰もがわかる、すぐに覚えられる、インパクトの強い曲を志向していた。

 

著者に言わせれば、ベートーヴェンの曲の特徴は、「わかりやすい、うるさい、新しい」だそうだ。

 

著者はこのベートーヴェン一人だけに一章をさいており、しかもそこでの文章は興奮気味であった。もちろん、それを読んだ自分も影響を受け、いちいちスマホ交響曲第一から第九まで検索し聴きながら読んでいた。ベートーヴェンの章を読んで、熱い著者のファンになった。

 

音楽のからむ本は、どうしても興味深い内容がでてきたところで、それを実際に聴いてみたくなる。もちろんクラシックの場合、第一楽章から最後まで全部聞くには膨大な時間を要するので、さわりだけを聴いてみたり、いつしかBGMにしながら読んでいたりする。

 

今回も、この本でたくさんの作曲家のさわりを聴いた。それでも、普通に本だけ読んでいるより、聴きながら読むほうが臨場感があってよいなと思う。

 

 

貂の皮

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司馬遼太郎の短編の最後の貂の皮は面白かった。

そもそも最初は、この文字を何と読めばよいのかわからなかったが、これが「テン」という動物のことであることがわかった。「貂の皮」とは、この動物の皮で創った槍の鞘で、徳川の時代には、豊臣系の大名・脇坂家の大名行列での旗印となっていたようだ。

なるほど、毛並みが美しい動物。槍の鞘としての機能性もよさそうだし、その見栄えもよさそうだ。

 

どんなものかの実物は、下記の兵庫県たつの市のサイトに掲載されていた。

http://www.city.tatsuno.lg.jp/rekibun/tennokawa.html

 

司馬遼太郎の本編でも書かれていたが、のちのち脇坂家の家宝となったこの貂の皮は、もとは丹波赤井直正という武将の家宝だった。脇坂家の初代・脇坂安治は、秀吉に取り立てられ、あるとき、丹波攻めでなかなか落ちない城の主、赤井直正との交渉話をもちかけられる。「子息の命は保証するから、開城せよ」という要求を赤井直正に飲ませよと。

 

単身で敵陣へ行って交渉というのは、命を取られに行くようなものが、「命がけの仕事こそ将来を切り拓くチャンスだ」と秀吉に諭されて、安治は単身敵陣に乗り込んだ。

安治の大胆な交渉は、敵将赤井直正に気に入られ、命を取られることなく、「子息の命を保証する」ことの礼として、赤井家の家宝貂の皮を譲りうけることとなったというのが経緯のようだ。

 

安治は最終的には赤井直正を打ち取り、出世をものにした。そういうことから、この貂の皮は脇坂家の運を上向かせるシンボルとなったようだ。

 

秀吉が柴田勝家を破った際に、功労者を称え賤ケ岳の7本槍と7人の臣下を称えたが、その7人の一人にこの脇坂安治が入っている。しかしながら、賤ケ岳の戦いでの脇坂安治の功績はクエスチョンのようだ。こうして功少なくして、称えられるという幸運も、この「貂の皮」の御利益によるものか。