気ままな読書ライフ

気ままな読書日記

図書館で借りた「緒方貞子 私の仕事」を少し読む

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図書館は、新型コロナウイルスの感染拡大で一時完全閉鎖となっていたが、3月末から本の予約受け取りと返却のみが可能となった。そこで、昨年お亡くなりになった、元国連難民高等弁務官緒方貞子さんのこの本を読んでみたいと思っていたので、予約し受け取っとっていた。

 

しかし、4月からの新たな職場への就職などでなかなか着手できず、休暇日の今日の午後から少し読み始めた。

 

なぜこの本を読んで見たくなったかは、米国タイム誌の世界に影響を与えた過去100年分の「ことしの女性」に、1995年の「ことしの女性」として緒方貞子さんが選ばれたというニュースを聞いたからだ。

 

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まだ、今日は前から3分の1程度を読み進んだだけだけれども、この日本が誇る偉大な女性の生き方や考え方を日記の端っこに記しておきたいなと思う。

 

緒方さんは、1991年1月に国連難民高等弁務官UNHCR)を拝命し、2月にジュネーブに赴任し、それから2000年の末に退任するまでの10年間、任務を果たされたが、その後も米国同時多発テロ(2001.9.11)を契機として、アフガニスタンの難民帰還及び復興支援に貢献したと述べられている。

 

緒方さんの仕事に対する考えが現われている言葉を拾ってみた。

 

「国家の権力によって領土を完全に保全し、国民の生命の安全を完全保護できる時代は終わった」

 

「紛争が起こる前に、飢え、病気、宗教的民族的差別、社会的不公正で苦しむ市民を直接支援する国際的な仕組みを作らなければ、この地球上から難民がなくなる日は来ない」

 

「私の判断の拠り所となったものは、ただひとつ彼ら(湾岸戦争収拾後のイラクにおけるクルド難民)を「救わなければならない」といことであった。この基本原則(プリンシプル)を守るために、私は行動規範(ルール)を変えることにした。

 

「常に難民という犠牲者の保護者として、保護を実施するための交渉に当たる。次に、保護者としていろいろなところへ行って拠出金を含む支援を集める、これが私のしてきたことである。」

 ※タイム誌は、「小さな巨人という異名を持ち、手ごわい交渉人として知られた」と緒方氏のことを紹介していた。

 

「人間の安全保障というのは、安全保障というのは、安全保障を人権、人道、保健衛生、開発、環境、教育等幅広い人々の営みの側面から考えるものである」

 

ジュネーブ忙中日記」として、1993年、1994年夏までの緒方さんの活動日記が記載されていたが、タイトルどおり多忙でかつ重要な仕事をこなされる日々が綴られている。その忙中にも、ご自身の安らぎの時間を忘れられていないのが流石だなと思う。

 

職務に関する難しい内容はわからないし、国際情勢のことも理解できていないので、流し読みで雰囲気を読んだだけである。

 

面白いと思ったのは、1993年12月7日に、元国連事務次官明石康氏と朝食をとられたことが書かれた内容。

 

「明石氏と朝食。九時、フランス語。九時三十分、副高等弁務官。官房長と毎朝の打ち合わせ会議」

 

日本人どうしなのにフランス語で会話されている!!

それに朝ごはんがたった30分間。あっという間だ。

 

1994年1月7日の日記。

「九時、羽田孜外務大臣。九時三十分、藤井裕久大蔵大臣。一時三十分、鈴木俊一東京都知事表敬訪問。十時、テレビ朝日ニュースステーション久米宏のインタビュー。

 

時代を感じる名前の羅列だ!

 

・・・返却日までに読み切れるかなぁ。

雑談:介護職日記1:四大認知症

本来の「読書日記」に加え、初めての介護職についての体験も雑談的に綴っていこうと思う。

 

初日、職場のケアマネさんより、事前知識を確かめる小テストのような資料を渡された。「わかる範囲で回答を記入してください」との指示をうけたが、その中で全く答えられなかったのが、四大認知症に関する問題だ。

 

介護スクールで学んだ形跡はあったが、ほとんど記憶になく、再度復習しておきたい。

 

四大認知症

アルツハイマー認知症

・血管性認知症

レビー小体型認知症

・前頭側頭型認知症(ビック病)

それぞれに特徴があるが、その特徴について問われた。

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アルツハイマー認知症

認知症の中でも最も多く、認知症高齢者全体の5割以上と言われる。

神経伝達物質アセチルコリンの減少が発病に関与している(増加させて進行を遅らせる薬が開発されている)

・70歳以上の女性に多いのが特徴

・発病から終末期に至るまでは平均8年

・記憶障害(同じことを繰り返し話す)

・実行機能障害(手順を踏んで作業ができなくなる)

・巣症状(失語など)

見当識障害(場所、時間、人の判断ができない)

神経症状(歩行しにくくなる、言葉を発しなくなる)

・人格は比較的保持される

 

■血管性認知症

・高血圧や脂肪異常症などの生活習慣病により、脳の血管に動脈硬化が起こると、脳血管疾患が起こり、一部の脳細胞が死滅して血管性認知症となる。

・欠損した脳の部分について機能低下するが、その他の機能は比較的保たれる。

・60~70歳代男性に多い。

動脈硬化などの慢性的な循環器障害が起こり、脳の広範囲が障害されると発症する。

アルツハイマー型と似ている。

・初期には、頭痛、肩こり、めまい、手足のしびれ、耳鳴り、物忘れ、気分の不安定さ

 

レビー小体型認知症

・脳全体にレビー小体という物質が沈着することで起こる。

・詳しいメカニズムについては分かっていない。

・高齢者に多く発症するが、40歳前後で発症するケースもある。

・幻視や妄想、レム睡眠行動障害が多くみられる。

パーキンソン病に似た症状

・暴力的な夢を見ることが多く、それに応じた行動をとる

 

■前頭側頭型認知症

・初期の段階では、日常生活への支障がなくわかりにくい

・症状が進行するにつれ、感情や欲求が抑制できなくなり、思うままに行動

・言葉の意味が理解できなくなったり、失語が現れる。

 

職場の施設においても、認知症の利用者さんは非常に多い。正しい知識をもっていなければ、対応を誤ることもあるかもしれない。また、血管性認知症などについては、自身の将来の予防を考えた生活への配慮が必要であることがわかった。

 

 

雑談:一丈のほりをこえぬもの十丈・二十丈のほりをこふべきか

これまで事務職一本で来たが、60歳の定年退職年齢を迎え、一大決心をし第二の人生を「介護職」で行くことに決めた。親の遠隔介護である程度の概要については知識としてしっていたものの、実際の業務につくのは全くの初めてであり、第二の人生は「新たな人生勉強」の開始となる。

 

第二の人生の選択方法はいろいろな考えがあろうが、一つは「人」とか「生きる」とかいうことについて、直接関わる仕事をしようと考えた。もちろん、介護職の現状は処遇の面で厳しいというのが一般的な認識で、事実そのとおりであると思うが、経済面についてもこれまでの「寄らば大樹の陰」的な依存的姿勢から、「自己解決」的な自立的姿勢へ転換した。

 

ところが、めでたく就職先が決定し、就業までの期間に体調を整えておこうと思って、事務職時代から気になっていた腰痛と、持病の不整脈について、療養施設や医療機関に出向くことにした。

 

腰痛については、本を読んだほか、整骨院、鍼治療、整形外科と受診した。それぞれにその治療の特長面では効果を感じた。とくに、東洋的治療と西洋的治療の違いそのものにも興味を感じながら治療に身をゆだねていた。

 

一方不整脈については、雇用前検診でも症状が確認されていたが悪性のものではないとのコメントであり安心はしたが、けっこう頻発するのが気になっていた。

 

この二つの症状は、これから従事する「介護職」に対して、少々不安材料である。にも関わらず治療が体に合わないのか、いずれもなかなか効果が見られず、「就職先を決めたまま就業を断念しなければならないのでは」という選択肢も頭をよぎった。

 

少し前に決めた目標「4月1日からは完璧な健康体で出社する」が果たせるのか否か。

果たせなければ、新型コロナウィルスの影響以外の、全くの自己責任で家庭の経済が追い込まれていくことになる。経済的「自立」姿勢を選択した、最大の試練がさっそく訪れたのだ。

 

仏典に「一丈のほりをこへぬもの十丈・二十丈のほりをこうべきか」という御文がある(日蓮大聖人・種種御振舞御書)。「たった一丈の堀が越えられない者に、どうして十丈や二十丈の堀を越えることができようか」という意味である。

 

鎌倉時代、自然災害が多く旱魃が続いて民衆があえいでいた折、日蓮日蓮に敵対する極楽寺良観が雨乞い対決をしたときの日蓮の言葉である。

 

当時高僧として幕府や人々から最高の信頼を獲得してた念仏僧良観が、雨を降らせる祈祷を行うこととなったのに対し、日蓮は「誤った祈りで雨など降るはずがない。七日以内に雨が降ったら自分は良観の弟子になろうではないか。その代わり降らなかったら、良観は自分の弟子になれ」と雨乞い対決を申し出た。結果、七日では一滴も雨が降らず、もう七日間延長の泣きを入れたがそれでも雨は降らず、さらに再度延長を申し出るが雨が降るどころか暴風が吹き荒れるだけ」の結果であった。

 

その際に、日蓮極楽寺良観に言った言葉がこれである。

 

自身も最後は、信仰の力によりなんとか先の目標を達成できたように感じる。今回ばかりは、医療等の効果が見えなかったため、最後の手段の信仰の力と自己治癒力に委ねるしかなかったが、なんとか「一丈のほりをこえることができた」感触がある。

 

もちろん祈っているだけで効験が現れるというような神秘的、非科学的なことが起こったのではない。その間に、TV番組の「くねくね体操」というのに出会い、それを応用した自己体操が腰痛の改善に効果を表したとか、「不安のスパイラル」に陥らないよう自身のメンタルコントロールができたことなどが改善要因に少なからず影響していると考えられる。

 

「くねくね体操」は腰を左右に振るだけの単純なものだったが、例えばリー・モーガンの「アウトサイダー」をBGMに腰をリズムに合わせて振るなどで、随分腰回りが軽やかに回るようになった。リズミカルな体操は非常によいと感じた。

 

さて、一丈のほりを越えて初日出社から3日間の勤務を無事こなしたものの、事務職から介護職への職務スタイル変更は、健常な体でも腰への負担は大きい。まだ介助などによるハードワークはないのであるが、突っ立ってるだけでもこれまで使っていなかった筋力必要とするようである。もともとの腰痛の種を抱えたまま、新たな筋肉痛を付加し、この3日間はけっこうな試練であった。幸い業務中に変な不整脈も発生していない。やっと二丈目を越えた感覚である。

 

まだまだ、十丈、二十丈は先にある。

取り急ぎ、人生節目の日記として記しておこうかと思う。

「龍馬の炭焼珈琲キャンディー」を舐めながら

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先日100円ショップでデスクに備えようとオヤツの瓶を買った。小さな喜びである。

瓶だけではさみしいので中身もついでに買うことにしたのだが、この「竜馬が惚れた炭焼珈琲」っというキャンディーに目が留まり、思わず買ってしまった。このキャンディーには、一袋ずつ竜馬の名言が書かれている。

 

今日つまんだ袋には、「俺は、明日の俺ならず」by龍馬 と書かれていた。ほかの袋にもそれぞれ違う言葉が書かれている。楽しい!(笑)

 

しかし、こうして昼間からブログを更新できるのもあとわずかだ。4月1日から新しい会社に就業するにあたり、入社関係の書類を整えるとともに、体調を整えている。今日はあらかじめ予約していた健康診断に出向き、一連の検査を終えてきた。少々不安があった循環器も大きな問題なく、無事「診断書」を入手してきた。

 

午後からはおとなしく自宅待機だ。無駄に動くのは新型コロナ的に危険である。

 

先日、「坂の上の雲」の第二巻を読みながら、正岡子規の人物に非常に興味がわいてきたが、今日はもう一度先日読んだ夏井いつき先生の「子規365日」を開いてみた。

毎日一句、子規の句が楽しめるつくりとなっているが、今日の句はこれだった。

 

3月27日 「足音にはつと散りけり柳鮠(やなぎばえ)」

 

夏井先生もこの「柳鮠(やなぎばえ)」というのを調べられたようで、東京ではウグイ、琵琶湖ではオイカワ、高知ではカワムツ、要は春の5センチ足らずの柳の葉に似た魚の総称ということだそうだ。

 

この句は1893年の作だそうで、まだ従軍に行く前の比較的元気なころに作った作品だ。

 

坂の上の雲」は次の第三巻を読み始めたいところだが、どうも子規の人物に意識が言っている中で、この前、青空文庫から「子規の画」というのを読んだという人がいたので、読んで見た。これは、夏目漱石が書いた、日記文のようなエッセイのような作品だ。

子規の画

子規の画

 

 

漱石は、子規が描いた画をたった1枚持っていると。亡き友の記念として持っているのだが、袋に入れて保管していたので、そのうちにどこに保管したかわからなくなりそうなので、それと子規の手紙とを表装したという話だ。

 

漱石はその子規の絵について、いろいろと語っている。一輪挿しの東菊を描いた絵のようで、それが時間をかけて描いてくれたわりには、それほどうまいとは思えないことに気づいたようだ。

 

10年前にに亡くなった子規を思い出しながら、やつは「人間として、また文学者として、最も「拙」の欠乏した男であったなぁ」と回想している。めぐりあったことがない「やつの「拙」を笑う機会めぐりあったこともなかったよなぁ」とも。

 

しかし、「こいつは、下手くそだ。笑えるぜ」とその画を見ながら、ニンマリしている漱石がいる。

 

「だだ画がいかにも淋しい。でき得るならば、子規にこの拙なところをもう少し雄大に発揮させて、淋しさの償としてかった」というのが締めの言葉だ。

 

旧友を懐かしむ漱石の心が伝わってくるようだ。

 

「坂の上の雲」第二巻、「列強」の章

 
この3連休、祝日の金曜日にも、この公園の桜を見に行ったが、まだどの木の枝にも爆発寸前の蕾しかなかった。しかし、今日の午後見に行ったら、見事に八分咲きくらいになっていた。待ちに待った美しい季節が到来したというのに、公園には人はまばらだった。
 
しかし、例年のように「桜まつり」が開催されて、多くの人が集まり、カラオケサウンドが鳴り響く公園でなく、こうしてゆっくり歩きながら、桜花の美しさを静かに味わうほうが趣があってよいようにも思う。
 
昨日は、最後の「列強」の章だけ残していた「坂の上の雲」第二巻を読了したので、読書日記を少々。
 
最後の「列強」の章では、日露戦争の前段の模様が描かれている。帝国主義により、英仏に追い付けとアメリカ、そしてロシアの領土拡大意識が高まってくる。
 
日清戦争で、それまで巨獣と意識されていた清国が、死亡寸前の巨獣と化し、周囲の食肉獣(=列強)がその肉を狙いだした。日清戦争での日本の戦利品の一つである遼東半島にロシアが目を付けた。南下政策の妨げとなる日本の遼東半島進出。ロシアは仏独を巻き込んで、「遼東半島を清国へ返還せよ」と干渉してくる。三国干渉である。ついには、その遼東半島満州を勝手にロシアが略奪していくのである。奪ったもの勝ちの帝国主義
 
不凍港を獲得するために南下政策を実行し、シベリア鉄道を完成させた鋼鉄の意思の人・アレクサンドル三世は、満州と朝鮮を除く大陸を制覇した。それを受け継いだのがニコライ二世。性格は父の真逆らしい。
 
そのニコライ二世には、皇子の時に日本を訪れた際に、日本人の巡査から問答無用で切りつけられ大けがを負ったという経緯がある。明らかに当時の日本人も外国から侵略されるという恐怖心や、異敵を撃つという攘夷思想が高じた異常性に侵されつつあった。
それ以来、ニコライ二世は日本人を「猿」呼ばわりした。
 
当然ニコライ二世は、野蛮な猿を滅ぼし、父親が課題として残した満州と朝鮮を獲得し、大陸制覇の偉業を成し遂げたい。日露戦争は彼の時代に起こるべくして起こったと言えるだろう。
 
ところで、興味深く読んだのはロシアの歴史の部分。ロシアの時代区分はピョートル大帝「以前」「以後」と呼ばれることがるらしい。ピョートル大帝というのは、革新的な人物だったようだ。ピョートル大帝以後というのは、日本で言えば「明治維新」といった感じだ。
 
本書の中では、ピョートル大帝は、嶋津斉彬や鍋島閑叟と似ていると述べていた。船に興味を持ち、機械いじりが好きで、船大工となり、航海術を身につけたという。
 
また、西洋に遅れた文明を取り戻すにあたり、見学旅行を企画したという。この辺りは、明治維新岩倉具視大見学団の活動と似ていたと述べられている。
 
陸海軍も手作りでつくったという。
 
ピョートル大帝について書かれた本があるなら、読んで見ると面白いだろうなと思った。ちょっとAmazonで検索してみると、やはりありました。

 

 

 

第二巻は、日清戦争に関する章を除けば、淳さん(秋山真之)と升さん(正岡子規)がそれぞれの分野で磨きをかけていく様子が描かれていた。
 
 
秋山真之は、子規のことをこう言った。
「升さんは、俳句と短歌というものの既成概念をひっくりかえそうとしている」
 
そう語る真之も海軍の既成概念をひっくり返そうとしていた。
 
歌壇革命と日露の関係はどう展開していくのか、次の巻も楽しみである。

「坂の上の雲」第二巻を読み進める 

今日は、春らしい一日だった。我が家の庭の鉢植えの桜も開花した。

ついでに、近くの桜が美しい公園の様子も見に行ってみたが、こちらは一輪、二輪咲いている枝があったものの、開花まではもう少しかかりそうな感じだった。蕾はすでに準備が整っている。

 

4月1日から就業する会社から、入社関連の資料が届いていた。そのなかに雇用前検診の依頼文書があったので、さっそく最寄りの病院に電話予約をした。予約は、直前の3月27日しか空いていないとのことだったが、基本的な検査項目であれば、その日のうちに結果がもらえるとのことで安心した。

 

今日は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の第二巻を読み進めた。

坂の上の雲 <新装版> 2

坂の上の雲 <新装版> 2

 

 

といっても、読み始めたときがハードカバーだったので、文庫本の第二巻には、すでに読んだ章も含まれていた。「日清戦争」「根岸」「威海衛」の各章は、既読なので、その次の「須磨の灯」の章から読み進めた。

 

「須磨の灯」「渡米」「米西戦争」「子規庵」と来て、あと残りの「列強」を読むと、文庫本の第二巻は読了となる。

 

「須磨の章」

従軍記者として出発した子規だったが、日清戦争は日本の勝利で終結し、子規はわずか1か月の従軍で帰国の途につく。その船上で、子規は血痰を吐き、即刻神戸病院に運び込まれた。持病の結核が悪化したのだ。神戸病院から須磨保養院へ移り、そして伊予松山へ帰省する。

 

神戸病院への入院時には、後輩の高浜虚子は京都におり、度々子規を見舞ったが、その際に、子規は自分の後継者になってくれと虚子に請うた。

 

松山に戻り、少し体調を取り戻した子規は、友人の夏目漱石(当時は松山中学の英語教師)の下宿へ転がりこむ。結核患者が下宿に転がり込むという神経も信じがたいが、それを受け入れる神経もまた同様だ。そして、その漱石の下宿を「愚陀仏庵」と名付け、我が物顔で使っていたのが子規である。

 

「渡米」

明治30年6月26日、秋山真之は、米国留学の発令を受ける。送別会が催されたが、子規は病身のためその送別会には出席できなかった。自分の体調を振り返り、もう真之に会えないかもしれないと句を詠む。

「君を送りて 思うことあり 蚊帳に泣く」

 

真之は、ワシントンの日本公使館に赴任し、戦略と戦術の研究に没頭する。

 

米西戦争

真之の米国滞在時に、キューバをめぐるアメリカースペイン戦争が勃発する。

日本の観戦武官として、柴五郎とともに、真之は任命されるが、この時に書き上げた真之のレポートは非常に優れた出来で、「正確な事実分析と創見に満ちた報告書」であったと評価されている。この評価により、後に真之はバルチック艦隊に対抗する参謀に任じられることとなる。

 

「子規庵」

真之が渡米している間、子規は再び陸羯南の新聞社「日本」で仕事をしつつ、根岸で養生している。その子規の意外な一面が書かれている。

 

当時の家賃5円、米屋への支払い4円に対し、菓子代が1円50銭を下らなかったという。子規は菓子好きで、「菓子を食うと書ける」と言っていた。死病と言われる結核を患いつつ、菓子をバクバク食いながら仕事をする子規という人物は面白い。

 

しかし、このころの子規の文筆活動はすさまじかったようだ。

「あしは、この小庭を写生することいよって、天地をみることができるのじゃ」と、どこにいようと短歌を作り、俳句を作ることができると宣言していた。そして、このころ子規の既成歌壇に対する批判もすさまじかったようだ。

 

歌よみに与ふる書」に、歯に衣着せぬ手厳しい批評が記されている。

「ちかごろ和歌はいっこうにふるっておりません。正直にいいますと万葉いらい実朝いらい和歌は不振であります」

「貫之は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集に有之候」

 

もちろんこの批判に対する反発が強く、しかしそれに一歩も引かず子規はそれらに反駁していった。

 

おそらく、自分の健康状態と、自分が短歌・俳句に残すべきこととの天秤が、子規を執念の人にが変えたのではないかと感じる。

 

真之曰く「升さんは俳句と短歌というものの既成概念をひっくりかえそうとしている」

 

 

 

 

雑談:上石神井ツアー

M氏との待ち合わせ場所は、上石神井の中華料理店「一圓」であった。

介護のスクールで同じクラスになり、1月中旬の最後のクラス以来久々の再会である。お互いに就職先がきまったということで、その情報交換も兼ねて、久々に会うことにしたのだが、昼ということもあり「駅近の中華料理で昼飯でも」と申し出たところ、上石神井在住のM氏から「一圓」の指定があった。

 

一昨年前に西武沿線に引っ越しをしてきて、それほど沿線地理には詳しくなく、上石神井に下車したのも数回しかないので、この「一圓」の存在も当然知らなかった。少し早めに到着し、なぜかこの日突風が吹き荒れる中、店の軒先に立つこと5分、長身のM氏が現れた。

 

好きなタイプの中料理店である。名物がジャンボ餃子とのこと。

自分は中華料理店は、チャーハンの味でリピートするかどうかを判断したいタイプであるので、さっそくチャーハンにその名物のジャンボ餃子3個というのをつけて注文した。

 

M氏曰く「食えますか?大丈夫ですか?」

 

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これはネットに転がっていた写真を拝借したが、まったくこれと同じものが運んでこられた。ジャンボ餃子の皮は分厚く、肉まんのようでもある。3個入り餃子といっても、肉まん3個食っているような重量感だ。そして、チャーハン。

 

見た目、キレイな半球体ではなく、ばらついた感じが、平日ランチタイムの忙しさを物語っていたが、このヤマが食えども食えどもなかなか減らない。自分はついに途中リタイアしたが、周囲のガテン系若手の面々や、ガッツリ系サラリーマンの面々が勢いよく平らげる姿からは、コロナ不況もなんのその的なパワーが感じられた。

 

ところでこの「上石神井(かみしゃくじい)」というのは読みにくく、書きにくい。特に書くとなると「上」と「神」がこんがらがって、わからなくなってしまう。この地名についてちょっとwikiなどで調べてみたところ、ここには城跡があり、もと豊島氏という一族の所領であったことが書かれていた。

 

豊島氏の誕生は、平安時代にさかのぼるようで、鎌倉時代南北朝時代室町時代と各時代の歴史を彩る一族であったようで、その発祥は「東京都北区豊島」と書かれていたのには少々驚いた。

 

また、その支流、分家として、葛西氏、赤塚氏、志村氏、板橋氏、滝野川氏、練馬氏、小具氏、平塚氏、白子氏、庄氏があると記載されていて、ついこの前まで板橋区に在住していた自分は、地名がこの豊島氏の分家の名前から由来していたということを知って、「そ~だったんだ~」と非常に興味深く読んだ。

 

このことを上石神井在住のM氏に確認してみると、やはり歴史通のM氏は当然のように知っていた。さすがである。

 

そのあと、石神井城跡を見てみたいと思い、城跡がある石神井公園を案内してもらったが、結局、缶ビールの誘惑に負けて、城跡は見ることなく、公園内にあるアズマヤに入った。座敷があって、くつろげるスペースがある。地元のおじさんがすでにワンカップでいい気分になっていた。空気が素通りし、新型コロナウィルスの感染リスクは非常に低そうである。

 

一番搾りそれぞれ一缶と、柿の種でしばらく談笑したが、この23区内にある不思議な異次元のスペースは、なかなかオツな空間である。

 

石神井の数時間ツアーはなかなか面白かった。